“Embracing Defeat”(敗北を抱きしめ)、Starting Over(最初からやり直し)たJapans(日本人たち)

この6月をもって、John W Dower(ジョン・ダワー)氏がMIT教授を退くことになっという。歴史家であり、米国きっての日本史研究者だ。

1999年に著したEmbracing Defeat「敗北を抱きしめて」でピューリッツァー賞を受賞した。翻訳本では上下巻の大書だ。
冷戦時代、50年代初頭に「憂慮するアジア研究者委員会」を創立した同氏らは米国中に吹き荒れるマッカーシーズムの渦中に置かれていた。49年、中華人民共和国の誕生により、それまで中国を米国の所有物かのごとく考えていた米保守派は『中国の喪失』だとしてヒステリックになり、蒋介石政権を批判し共産革命を好意的に描く者を、反米の裏切り者として糾弾した。その結果、優秀な学者が大学を去り、カナダ人外交官で日本史研究の先駆者、E.H.Normanが59年自殺に追い込まれた。

ジョン・ダワー氏は『敗北を・・・』のなかで描きたかったのは、「戦争直後に多くの日本人が様々なレベルで、粘り強さ明るさを発揮して、軍事にたよらない平和をつくろうとした姿です。あの本は“Starting Over”(最初からやり直す)という題名を最初に考えていたのですが、出版社から離婚経験者の話だと勘違いされると言われて、あきらめた経験があります。しかし、戦争で打ちのめされた国がもう一度やり直した戦後日本の積極的な面があるのですから、その題名のほうがふさわしかったかもしれません」と温和な表情でに回想する。

今月17日、MITで退職記念シンポジウムが開かれた。パネリストの一人がダワー氏を≪穏やかなラジカル≫と呼んだという。“穏やか”はmildと云うべきか、moderateと云うべきか、それともgentleか?

語り口こそ柔和だが、同氏の旧来の歴史家の責任に対する追及は厳しい。
『敗北を・・』の序文≪日本の読者へ≫のなかでのダワー氏の日本観・日本人観には覚醒されられる。欧米人の日本に対する固定観念に鋭く異議を唱えている
「『日本』が例外的な国だというのは、一種の決まり文句になっている。どんな国も、どんな文化も『ユニークな』ものであるのは当然だが、日本の場合には、『ユニークのなかのユニーク』とされることがしゅっちゅうなのである。いわく、日本は単一民族の国である。それは『和』の精神に深く支配された文化であり社会である。それはほかの国、文化、社会とは、根本から、永久に、違っているのだと。
私自身は、そうは思わない。・・・森義朗首相が、日本は世界のほかの国や文化と違って、『天皇を中心とする神の国』だという悪名高いスピーチを行なった。私はこれに非常に腹が立った」

そのうえでダワー氏は、「『敗北を・・』の出版のあと人前で・・話をするとき、私はときどき『複数者plurals』という言葉を使うようにしてる。これは英語では簡単な言葉であるが、日本語では少々わかりにくいであろう。私はこんな風に話をする。『日本文化』だとか『日本の伝統』だとか、そういうものは実際に存在しないのです。実を言うと、『日本』さえ存在しません。逆に、私たちが語らねばならないのは、『日本文化たちJapanese cultures』であり、『日本の伝統たちJapanese traditions』なのです。私たちは、『日本たち Japans』と云うべきなのです。その方が日本の歴史の事実に近いし、今日の日本社会の実状にも近い。そう表現することによって、日本を世界のなかで比較することができ、本当に新しい、眼の覚めるような日本理解が可能になるし、今後もそのするように我々は促されることになるのです、と」

ダワー氏は≪敗北を抱きしめる≫戦後日本を励ました。
「日本は、世界に数ある敗北のうちでも最も苦しい経験をしたが、それは同時に、自己変革のまたとないチャンスに恵まれたということでもあった。『よい社会』とは何なのか。この途方もない大問題が敗戦の直後から問われ始め、この国のすみずみで、男が、女が、そして子供までもが、それを真剣に考えた。それはかつてないチャンスであった」
今まさにボクたちは、特に若者たちは、『よりよい社会とは何か』という新たな命題を突きつけられ、それに答えるべき時代に置かれている。
John Dower氏はMIT教授は退官するが、九月に最新本『戦争の文化』(英語版)を著すという。注目したい。