“We are down but no out ”を願うばかりだが....(その2)

5/1である。3/11から50日、巨大津波に追い討ちをかける原発事故、“戦後最大の日本の危機”のなかで第82回メーデーを迎えた。テーマは《被災地支援》。窓外は強風のなか新緑・深緑が眼に染む。早いもので初夏の気配だ。


原発をなだめつつ、がれきの処理に追われての、長い夏に”なると今日の「天声人語」。
メディアの一面はほぼ連日、Fukushima Daiichi Nuclear Power Stations事故をめぐる記事がトップをかざる。
内閣官房参与K氏(東大教授)が文科省の定めた学校校庭の利用基準「年間被曝線量」が高すぎるとして辞任、PM Kanに涙の抗議。昨日のThe NY Timesも《Japan's Prime Minister Defends Handling of Nuclear Crisis》のHeadline, K参与の“I cannot allow this a scholar”(専門家として許すわけいかない)と辞任の弁を載せている。
A紙Editorialsは3.11後の原発事故をめぐる日本政府の対応につき、世界の目に対し感度が鈍くなっかたかと、震災後の外交に次のように警鐘を鳴らす---
「『政府は事故を過小評価していたのでは』『不都合な情報を隠しているのでは』。国内でも疑念を抱く人がいる。国際社会から見たら、なおさらだろう。
国際社会への配慮を欠いた典型例が、低濃度の放射能汚染水1万トンの海への放出だ。近隣諸国への事前説明が不十分で、韓国の首相から、日本は『無能』とまで評された」
が、日本政府が“不手際”だったとしても、日本人は“無能”だろうか?
「われわれは歴史上はじめての苦しみを味わっている。住むに家なく、着るに衣服なく、喰うに米はない」-1946年戦後初のメーデーのスローガンだ。
「いま世界の人々が日本の苦境に気持を重ね合わせているのではないでしょうか。.....一国に対する同情的感覚がこれまで広がったのはめったにないことです」とJohn Dower氏。そうえで「この感覚があるうちに他国との連帯をどう築くのか。これが日本にとっての課題です」と語る。

John Dower氏は“Embracing Defeat”『敗北を抱きしめて』の序文≪日本の読者≫のなかで「日本は、世界に数ある敗北のうちでも最も苦しい敗北を経験したが、それは同時に、自己変革のまたとないチャンスに恵まれたということでもあった。『よい社会』とは何なのか。この途方もない大問題が敗戦の直後から問われ始め、この国のすみずみで、男が、女が、そして子供までが、それを真剣に考えた。これは、かつてないチャンスであった」
この序文に見られる≪敗北≫を3.11大震災に置き換えることが出来る。
今度の歴史的危機にあっても、Dowerさんは「日本社会のしなやかな強さを見る」と云う。そして、「被爆国である日本が、原発事故という形で新たな放射能の恐怖に襲われたことは、これは歴史の悲劇的なめぐり合わせとしか言いいようがありません」と原発問題にふれる。『敗北を抱きしめて』は当初“Starting Over in a Shattered Land”『打ちのめされた国で最初からやり直す』という題名を考えていたと云う同氏だけあって、「日本人は悲劇から新しい創造的なものをつくりだすことができる。今回の東北の悲劇からも、同じように立ち直ることを期待しています」と、“普通の人々も『原発』議論を重ね世界を引っ張る力になってほしい”と願っている。
Dowerさんは「個人の人生でもそうですが、国や社会の歴史においても、突然の事故や災害で、何が重要なことなのか気付く瞬間があります。すべてを新しい方法で、創造的な方法で考え直すことのできるスペースが生まれるのです」と歴史家としてのPerspectiveを展開する。
ボクはかかるJohn Dower氏の日本への励ましともいうべきコメントに敬意を払う一方、宮古市で遡上高が国内史上最大級の37.9m、仙台平野の海岸線から5〜5.5㎞まで達した巨大津波の爪あとには言葉を失う。瓦礫が少しずつ取り除かれていくものの、後に残るのは原野か...。泥土に白い岩塩がへばりつている。建物は無し。瓦礫も無し。土壌の下は地下か奈落か。


そこにはDowerさんの言う幾人もの≪個人の人生≫が埋もれている。
悲しき「葬送」の地....。眠るのは“無名の戦士”ではない。為すすべなく逝ってしまった人たちの白木の墓標だ。ただ目に映るのは、非情の番号だけだ。まさに≪異界≫である。


   阿字も無く戒名も無き墓標なり白木のまま風に吹かれ
“ああ無情”...