試されるのは、追悼文・弔辞の内容

4月に他界した井上ひさしさんの「お別れの会」が昨夕催された。
文学・演劇関係者ら1200人が参列した。遺影の前には、『遅筆堂』と自ら称した井上さんの全著作、約400冊が並べられた。


同じ東北生まれの作家、『挨拶はむずかしい』の丸谷才一氏が弔辞の中で「高い教養と知性の持ち主だったが、大衆の一員であり、一人の庶民であった」と振り返る。

加藤周一さんに続き、「九条の会」の中心メンバーを失った大江健三郎さんの弔辞は胸に迫るものがある。
「ひさしさんからもらった作品に対するメモを机の前に置いて、晩年の仕事を準備します。もう読んでもらえないが、井上ひさしに向かって書きます」と涙で声を詰まらせた。

かつて山本嘉次郎氏が弟子の黒澤明監督に「祝辞は短く、弔辞は長く」なる名文句を遺しているが、昨日の「お別れの会」での弔辞はどうだったであろう。
追悼文・弔辞も長短だけで評価すべきではない。
1959年(昭和34年)4月30日朝、永井荷風の遺体が市川市八幡の自宅で発見された。79歳、胃潰瘍で喀血、老人の孤独死である。

荷風散人の孤独死、死骸の写真が新聞に掲載されたこともあり、世間の好奇の眼にさらされた。
「・・このような死骸の写真まで新聞にかかげるのは、人を傷つけることひど過ぎる」「哀愁極まりない写真であった」と川端康成は怒りを覚え。ジャーナリズムを断罪している。
三島由紀夫荷風を「のたれ死にする文学的ダンディズム」と評し、伊藤整は、「ジャーナリズムは何か誤算しているんじゃないか。荷風がああして、ああいう暮らしを死ぬのが、あたりまえなんです」と語っている。
荷風の堕落を激しく批判した一人が石川淳だ。「荷風晩年の愚にもつかぬ断章には、ついに何の着眼も光らない。事実として、老来ようやく書に倦んだということは、精神が言葉から解放されたということではなくて、単に随筆家荷風の怠惰と見るほかないだろう」

そのうえで石川淳は「荷風文学は死滅した」「ただ愚なるものを見るのみである。怠惰な小市民がそこに居すわって、うごく気配がない」「市川の僑居にのこった老人のひとりぐらしには、芸術的な意味はなにも無い」と断じた。
荷風への追悼で、石川淳の対極として、激しい怒りをぶちまけたのは大江健三郎だ。若干20歳、東大在学中の大江さん、『飼育』で芥川賞受賞の3年以上前の批評である。
永井荷風の死にさいして、日本のジャーナリズの圧倒的な大部分がとった態度、恥も外聞もなく非人間的で下司根性に満ちた態度は非難され糾弾されなければなりません。日本の近代文学の前進のエネルギーの最も良き部分を長い年月にわたってになってきた、この秀れた作家、この斃れた巨人にたいし、いかに徹底的な冒涜がなされたか、それは後世の文学研究社たちに嫌悪にみちた衝撃をあたえつづけることでしょう。かれらの非難に満ちた眼は、われわれの背にもまた向けられることでしょう」

大江さんはつづけて、「明治以降、多くの文学者が死にましたが、永井荷風ほどの厖大な数の忌まわしい蝿にその死をけがされた文学者はなかったと思われます」「作家は孤独になるべきです。特に若い作家はそうしなければならない」と訴えている。
就中、文学者の追悼文・弔辞は試され。批評の対象となる。それ自体が評論であり文学作品だからだ。