“日本語に魅せられて”--鬼怒鳴門さん

昨年3/11を境に多くの在日外国人が日本を脱出し帰国した。Donald Keen氏はこの惨禍を契機に日本永住の意思を表明、今年3月8日、日本国籍を取得した。雅号の“鬼怒鳴門”にはビックリした。まるで<怒鳴るぞ!>だが、鬼怒川と鳴門を組み合わせて作った当て字だという。

1940年、厚さに比べ廉価だったという理由だけでNY、Times Squareで49㌣で購入した『源氏物語』の英訳本に感動、漢字に興味を持った延長線で日本語・日本文学の研究にのめり込んだというD.Keenさん。「日本は美しい国。日本は怖ろしい国。矛盾した両面を持っている」が「一度も(日本に)敵愾心を覚えたことはない」と云う。そのうえで「人間は憎悪を忘れてお互いに美しいものを創ることが出来たら素晴らしい世界になるだろう」とBSプレミアムの≪100年インタビュー≫で語る。

“日本語に魅せられた”D.Keenさんは日本固有の<日記文学>に造詣が深い。中でも高見順『敗戦日記』に感銘。≪100年インタビュー≫のなかで次に一節に触れる---

「大声が聞こえてくる。役人の声だ。怒声に近かった。民衆は黙々と、おとなしく忠実に動いていた。焼けた茶碗、ぼろ切れなどを入れたこれまた焼けた洗面器をかかえて。焼けた蒲団を背負い、左右に小さな子供の手を取って・・・。既に暗くなったなかに、命ぜられるままに動いていた。力なくうごめいている、そんな風にも見えた。私の眼にいつか涙がわいていた。いとしさ,愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った。否、私も、----私は今は罹災民ではないが、こうした人々のうちのひとりなのだ。怒声を発し得る権力を与えられていない。何の頼るべき権力も、そうして財力も持たない。黙々と我慢している。そして心から日本を愛している庶民の、私もひとりだった」

1945年敗戦直後の焼跡の街の情景だ。それまで禁じられた天皇の問題に触れている。その年の9月28日、天皇マッカーサー元帥を訪問したことを新聞記事で知ったからだ。
天皇陛下が外国人のところへ御自らお出かけになるとういうようなことはかつてなっかた。日本人にとってたしかにショックだ。・・・」

が、マッカーサー司令部が、発禁の解除命令を出し、新聞並びに言論の自由に対する新措置を指令。高見は有頂天になった--「これでもう何でも自由に書けるのである! 何でも自由に出版できるのである! 生まれて初めての自由!」--
戦中〜終戦直後の日記と云えば、永井荷風の日記が白眉だが、自由人の荷風も時勢と世間の眼を気にしてか、例えば、天皇のマッカーサ−訪問の記事を書き換えている。


東都書房版「永井荷風日記」では---
『昨朝陛下微服微行して赤坂霊南坂下なる米軍の本営に馬氏元帥を訪がせ給へりと云う』
岩波書店断腸亭日乗」では---
『昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せらしという事なり』

これら二つを対比し、D.Keenさんは「日本の戦争」<作家の日記を読む>の≪あとがき≫のなかで「意味は同じですが、東都書房のテキストにはいかにも荷風らしいエスプリがあります。微服・微行といった皮肉が岩波書店のテキストから消えています。......後者からはユーモアが消され、事実を淡々と述べるに過ぎない調子になっています」
D.Keenさんは「平和な国ですから...」と日本の魅力を語っていたが...。