遠慮しながらも言うべきことはしかっかり言う人

昨日20日A紙連載の『定義集』の表題は≪井上さんが遺した批判≫。そのなかで大江健三郎氏は「(井上さんの)メモの脇には、この深夜、三度の目ざめがあったことも記されています。苦痛がなかったはずはありません。そうでなければ、私が息子にどのように和解を申し込むべきか、井上さんはあの遠慮深くていながら、いうべきことはしっかりいう、寛大かつ公正な性格を示して、取る道を教えてくれたでしょう」

大江さんが評するとおり、井上ひさしさんが声高ではないが“言うべきことはしっかり言っている”証左となる事例を幾つか記しておこう。
近年の日本の治安悪化について−−

「・・ジャーナリストの青木理さんの名言を借りれば、この社会は≪「治安悪化」の不安幻想≫(「週間現代」2008年3月29日号)にとらわれていることになるが、じつはわたしはいま、二つの妄想にとらわれている。


1つは、子殺し、親殺し、兄弟殺しの頻発は、人間が人間であることを、いや動物であることさえ止めようとしているのではないかという恐ろしい妄想であり、二つ目は、この国のお偉方が、これまで市民が税金を払って営々として築き上げてきた『安全という社会基盤』をそっくり警備産業に売り渡そうとしているのではないかという妄想である。おカネのない人間に安全はないという社会の到来−−この妄想がやはり妄想そのものであることを祈らざるにはいられない」

明治以来の我が国の漢字教育についての批判−−
「・・明治以来、この国の漢字教育は<読み書き並行、読み書き不分離>を金科玉条として進められてまいりました。つまり、読める漢字は書けなければならいなどいう方針がそれであります。その方針が、我が国の学童諸君にどのような苦行を強いたか。
 学童諸君は『活字のように正確に書きなさい』と不可能な要求を突きつけられて、点画の長短、その方向、その曲直、つけるか、はなすか、はらうかに神経を磨り減らしてきました。このような漢字教育は、漢字嫌いを増やすことに役立っただけではなかったでしょうか。

 最近の電子機器の発達は、右の<読み書き不分離の原則>がまったくの理想主義であったことを証明しております。ワープロソフトや携帯電話機を用いれば、『読めさえすれば書ける』ようになりました。もっと正確には、日本語でモノを書こうと思えば、その読み通りにキーを打てばよい。いわば日本語は、読む、書く、そして打つの、これまで想像もしなかった次元に突入した。すなわち読み書き分離の時代に入ったのです」

我輩も先日誕生した孫息子の命名を半紙に一筆書くのに、久々に毛筆を使った。書体は行書にしたが、まさに“点画の長短、その方向、その曲直、つけるか、はなすか、はらうか”想像以上に難儀した。まだ練習中で完成していないありさまだ。
井上ひさしさんのご指摘どおり、このほど常用漢字が増えたが、手で書かなくても、PCでキーボードを打てば出る漢字、そして書けなくても使うことの出来る漢字を増やしたわけだ。
今後の漢検はどうなる。子供の頃、母親からうるさく漢字の正しい書体の手習いをさせらた我が身でありながら、恥ずかしながらこのところ文書はもっぱらPC依存症だ。“落ちぶれ果てても・・・”と腹の中では意地を張ってはいるが・・。