「英雄史観・回顧史観」の危さ

NHK司馬遼太郎の『坂の上の雲』を3年かがりで連ドラする。気がかりだ。
もう15年ほど前になるが、一時期司馬作品を結構読んだ。
いまも、大手書店の歴史書コーナーには司馬作品が他を圧倒している。が、ボクはいつのころからか司馬モノを全く読まなくなった。とりたてて理由など見当たらないが、背景に長く愛読していた藤沢周平作品と対比したときの際立った落差である。つまり同じ人物を描く場合の視点が両極に分かれ、情味に甚だしい差が見られるからだ。
『坂の上・・』は日本近代の黎明期といわれた明治時代に人物像に焦点を当てたものだ。司馬はこの作品を通じて、日清・日露戦争での日本の侵略性を否定して“祖国防衛戦争”と評価している。

佐高氏の司馬評が鋭い---。
「歴史において個人の要素を否定することはできないけれども、すべて個人が動かしたように描くことは、その時代の状況を無視した個人肥大史観の誤りを犯す。司馬史観は頭デッカチならぬ個人デッカチの歪んだ史観だと思うのである」
「私が司馬遼太郎さんを非常に敬遠するようになったのは、まず第一に読めないんですね。そのリズムに入っていけないのと、なんかあの史観に抵抗があった。それともう1つ、読者の側から作家を規定するということも必要ですよね。日本の愚かなる経営者たちが、ほとんど全部、司馬遼太郎郎の『坂の上の雲』なんかを愛読書としてあげる。・・」
司馬は“彼の大好きなビルの屋上から歴史の道を通行する人間の完結した人生を見下ろすという俯瞰的手法で書く“と佐高氏は言う。
司馬が『坂の上・・』に取り組んでいる68年頃、あの大作『レイテ戦記』を書いていた大岡昇平は、“今日『坂の上・・』などを読むのは庶民ではなく、実務的な知識層だろう”と指摘したうえで、「司馬氏の爽快な鳥瞰的視点は高度経済成長の顕著となった65年頃から読者に受け入れられたのではないか。これは戦前の吉川英治が『宮本武蔵』を書いて、ファシズムに向かう国民にひとつの励ましを与えたメッセージと重なるのではないか」と手厳しい。
藤沢周平さんの言葉を借りれば“聞き覚えの在る声”によって“年寄りが若い人をアジる”≪唯我独尊史観論者≫に見事に利用されていると佐高氏。
ある種のジョークがある----
質問者--「江戸城は誰がつくったか?」
司馬さん--「大田道灌だ」
藤沢さん--「大工と左官だ」
先日、辻井喬が「吉川英治は『英雄史観』、司馬遼太郎は『回顧史観』だ」とと定義していたが、あえて言えば司馬史観なるものは「英雄・回顧史観」というべきだろう。固定した史観を避けた松本清張、俗にまみれて俗に染まらぬ非俗、通念・タブーに抗した周平さん。両氏とも国民的作家だった。2人に比して司馬さんはどうだったか。英雄史観だけが目立ち、読み応えの時代小説や社会派推理小説など皆無。佐高氏じゃないが“難しくて読めません”
今夜からスタートしたNHKの「坂の上・・」が視聴者を“集合的無意識”に誘導する凡作にならぬよう願いたい。