追悼試験

最近、惜しまれて早世、他界する作家や文化人が多い。弔辞は長くじゃないが、心に響く親友、知人の追悼文にお目にかかる反面、儀礼的な常套文も少なくない。
「或旧友へ送る手記」を遺し、“用意周到に”に35歳で自死した芥川龍之介は夫人と子どもあてに、そして小穴隆一、菊池寛あてなど五通の遺書を残している。芥川は、これら「手記」や「遺書」を生き残った者たちへのヒントとして遺した。つまり、追悼文が生き残った者のたちの解答文だとすれば、芥川は、並みいる作家たちへ追悼という宿題を残して逝ったことになろう。

予想通り、彼が自死した昭和二年に活躍していた著名作家のほとんどが、何らかの追悼文を書き残した。まるで主要月刊誌での追悼文合戦となった。芥川への追悼は、文人総がかりで、原文だけで分厚い一冊の調書ができるほどだった。

が、自殺未遂を繰り返したすえ、やっと自殺した芥川の死に顔を見つめながら「お父さん、よかったですね」と洩らした文子夫人のひと言。どの追悼よりも、芥川にはこの言葉が重かったのではなかろうか。
追悼文もいろいろあるが、その死に際し、哀切だけではなく、冷淡、冷嘲、批判、酷評、悪罵などに満ち満ちた“追悼”を受けた作家の最たる人物は永井荷風だろう。

1959年4月30日朝、荷風の遺体が市川市八幡の自宅で発見された。荷風自身、その前日近所の大黒屋でカツ丼を食べ、帰宅して、誰にも看取られず逝った。79歳、胃潰瘍による喀血死。鍋釜が散らかった部屋でうつ伏せに倒れている荷風の写真を新聞・雑誌はいっせいに掲載した。文化勲章を受章した高名な老作家、多彩な女性遍歴があり、人間嫌いで、二千万円以上の預金通帳を持った老大家の孤独死である。世間はスキャンダラスに扱った。


世間は“奇人”と称した。川端康成は、荷風の死骸の写真まで掲げるのは「人を傷つけることひど過ぎる」「哀愁の極まりない写真だ」と激しく怒りジャーナリズムを断罪した。が、氏も後年、ガス管をくわえて自死した。
平野謙は冷淡に「晩年の荷風が反俗的な老年を迎えることがたいへん困難になってきている」と指摘。「晩年の荷風が反俗的な芸術家からありふれたタダの年寄りに俗了していなかったか」と手厳しい。
さらに、石川淳の批判は酷評を超えて死人の顔にビンタをはるような苛烈さである。「・・・もしボストンバッグの中に詰め込んだものがすでにほろびた小市民の人生観であったとすれば、戦後の荷風はまさに窮民ということになるだろう。『守本尊』は枕元に置いたまま、当人は古畳の上でもだえながら死ぬ」と論じ、その上で「荷風文学は死滅した」と断じ、「ただ愚なるものを見るのみである。怠惰な小市民がそこに居すわって、うごくけはいが無い」「市川の僑居にこもった老人のひとりぐらしには、芸術的な意味は何も無い」と斬って捨てている。
石川淳の対極として、荷風の死の前年33年に「飼育」で芥川賞を受賞した大江健三郎が激しい怒りをぶつけている。
永井荷風の死に際して、日本のジャーナリズムの圧倒的な大部分がとった態度、恥も外聞もなく非人間的で下司根性に満ちた態度は非難され糾弾されなければなりません。日本の近代文学の前進のエネルギーの最も良き部分を長い年月にわたってになってきた、この秀れた作家、この斃れた巨人に対して、いかに徹底的な冒瀆がなされたか、それは後世の文学研究者たちに嫌悪にみちた衝撃をあたえつづけることでしょうに、かれらの非難にみちた眼は、われわれの背にもまた向けられることでしょう」(新潮)
ときに大江さん24歳、「若い作家の連帯」として書いた追悼は壮絶だ。大江さんは続ける。「明治以降、多くの文学者が死にましたが、永井荷風ほど厖大な数の忌まわしい蝿にその死をけがされた文学者はなかった思われます」と荷風の死の意味を自問し、「作家は孤独になるべきです。特に若い作家はそうしなければならない」と訴えている。

荷風は自由に生き、自由に死んだ。荷風の死を追悼することは、ほめるにせよけなすにせよ、追悼する者の主体を試されることになろう。追悼する人もまた試される。荷風は、死して宿題を後輩に課したわけだ。
このごろ書店で荷風散人を取り上げたエッセイや日記をよく見かける。結構なことである。