大地震罹災者,芥川の健全な精神(続)

3/11--M9.0のquakeは途方もない巨大地震だったが、東日本大地震と名付けられたように関東地震でもなければ、都市部の直下型地震でもない。
記録に残っている関東地震と云えば、1703年に起きた元禄関東地震と1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒発生の関東大地震。いずれも、相模湾震源とする海溝型地震である。最も恐れられているのが南関東直下型地震、今後30年の間に起きる確率は6割を超えると言う。
話題を関東大震災に絞る。今度の3/11quake以前は、まさに未曾有の大地震,M7.9〜8.2。東京市内78箇所から火災が発生し、猛火とそれに伴う大旋風のため焼死、窒息死する人が続出した。
こんにちまで、震災の日を9月1日としているのは犠牲者の数がケタ違いに多いせいだ。
最も悲惨だったのは川向こうの下町だった。山の手沿線はどうだっただろう。作家芥川龍之介はそのとき田端の高台に住んでいた。住まいは築10年も経っていなかったため、さしたる被害を受けていない。とは言え、揺れは尋常ではなかった。自身の「大地震日記」によれば、芥川は地震の直前、茶の間でパンと牛乳を飲食し終わり、お茶に手を伸ばそうとしたとき大震に襲われた。
芥川家は大家族だった。龍之介は母をつれて一目散に家の外に出た。妻、比呂志、多加志、父、叔母、そして女中のしずは置いてきぼりである。地震時の芥川の狼狽ぶりとその身勝手さは世間知らず、非社会的人物として嗤われ、非難されたものだ。
が、果たして「現実と付き合うことを知らぬ芥川」「芥川には生活がなかった」などと決め付けていいものか?
芥川の震災体験談の1つに「大震災覚書の1つ」がある。芥川の精神は健全だった。未曾有の震災という事件の中にあって、決して厭世主義に陥っていない。むしろ人々の悲観主義をいさめている。当時、渋沢栄一などは“震災は天のとがめ、天罰だ”として、「関東大震災は、第一次大戦後の繁栄で、一等国になったとはしゃぐ日本人の傲慢さを懲らすため、天が下した罰である」と説いた。芥川は違った。嘆いてもよいが、絶望してはいけない。
芥川曰く--「この大震を天罰なりと思ふに能はず。況や天罰の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐるに能はず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ」「嘆きたりと雖も絶望すべからず。絶望は死と暗黒との門なり」
その上で、芥川は「同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ」と記している。
こ見事な健全なる精神をは東北の罹災者の方たちに伝えるのは非礼だろうか?