孤高ではなく非俗に学ぶ。

某大手出版社が現代日本文学全集を編纂するとき、その中に国民作家というべき松本清張を入れることに真っ向から反対した人物がいる。三島由紀夫氏だ。『彼を入れるなら私は降りる』と言って引かなかったと云う。辻井嵩さんの話だ。
三島は清張が大嫌いだった。あれは純文学じゃないと言っていたかどうかは知らぬが、後期浪漫派の三島と中学(今の高校)も出ていない仲間を持たず孤立の作家である清張さんとは水と油だったはずだ。
清張は、反俗ではなく非俗の作家だった。反骨精神と社会正義は旺盛だった。
連日、話題になっているDPJ闇将軍O氏の関連する政治団体への巨額の政治資金の流れについて清張ならどのように考えたろう。秘書が起訴され、O氏不起訴処分となったが、清張さんの『疑獄100年史』に加えられない保証はない。

戦時下最大の言論弾圧横浜事件」について横浜地裁は実質無罪を認めた。清張さんの名著『日本の黒い霧』に加え、続編が出ないものか。
一方、三島は反俗作家の典型。孤高でもなく大変な仲間を集めていた。三島に洗脳された危険集団『盾の会』を作った。
ボクが過去半世紀のなかで最も驚愕した国内事件は、浅沼稲次郎刺殺事件と70年11月25日の三島ら「盾の会」の市谷自衛隊本部突入、腹切事件だ。その日はボクにとって長女が生まれた翌日だった。産院に向かうタクシーの中のラジオで一報を聞いた。産院について家内に話すとビックリ仰天、体に障ったようだ。
三島自決の前後、「春の雪」「奔馬」「豊穣の海」「文化防衛論」などを読んでいた。「憂国」が映画化され、「喜びの琴」が日生劇場の舞台に上った。

2年後の72年6月に日本評論社の≪別冊 経済評論増刊号≫「全面特集 裁かれる日本」が手元にある。そのなかのトップに三島由紀夫事件が取り上げられ、市谷自衛隊正面のベランダの上に立つ「盾の会」隊長三島の『檄文』が掲載されている。


『われわれ盾の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊は我々の父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行動に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない≪真の日本≫をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかった男の涙を知った。・・・われわれは戦後の日本が、経済繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へと落ち込んでゆくのを見た。・・云々・・』
自己陶酔の美文である。三島の思想・行動に共感を覚えた人士がいる。
橋川文三氏は“三島由紀夫の生と死”と題して「武人・三島にとって必要な究極ものは戦場死と等価の状況でありそのためには手続上なによりも死を誓った共同体・盾の会が必要だった」と語る。
三島を敬愛していた作曲家黛敏郎氏は、“三島氏の人と真情”と題して「自分にも人にも厳しく筋の通らないことは大嫌いだった三島氏は『右翼とだけは関係をもつなよ』とくれぐれも忠告してくれた」と不可解な言葉を残している。そしてもう1人村松剛氏は、≪三島由紀夫の思想と行動≫を「日本の伝統文化を守る以外に日本を守る道はないと信じた三島はその一番の結晶として切腹をあえて行なうことによって日本人の覚醒を促そうとした」と述べている。
如何なものだろうか。
ボクは卑俗でもなく、反俗でもなく、孤高でもなく、非俗の人から学ぶところが多い。

昨日は節分だった。夜遅く玄関を一歩出て、寒空を眺めながら小声で豆まきをした。
“福は内鬼は外”。何年ぶりのことか。庭には残雪、外は深閑としていた。