口業(くごう)とは・・“心の言葉”とは

幸田文さんの語り口をCDで聴いてみた。特別な事柄を声高に語っていない。極ぐ平凡な、当たり前の些事を語っているのに、文さんの口調で話されると、どんな話も、面白く艶があり、精彩を帯びる。

文さん特有の語り口の一例---
「・・おいしいものをご馳走になったりすると、口の果報にあずかりまして、というように以前は挨拶していた。私には聞き慣れた言葉だが、いまは言わない。業ということもいまは言わない。言うこと言うことが、人を傷つけ不愉快にさせトラブルをおこす、こういう人を---あの人も悪い人じゃないのに、口業の強いうまれだなんだねぇ、というのである。口に業がある、ともいう。いまでも口に毒のある人の言い方は使われている。私はやたらと父にさからったので、父もあきらめ気味になった調子で『おまえは口業つよくうまれて、まことに気の毒だ』といった」

露伴のこの言葉に一人娘、文さんはしおらしく兜を脱いでいる。
「おかしなもので、頭ごなしにがみがみやれれば、理由なき反抗なんて苦もなくできちまうものである。それが鳴りをひそめた雷様になって、気の毒だ、などと出生の責任者として愛惜の意を表してくれると、反抗は理由のあることのみに止めておこう、というしおらしい気になって、身にしみておぼえる。父親が気の毒と言ったことは私には『口業』をひとつおぼえにおぼえさせた」
そして文さんは「なぜ気の毒にいかれたかというと、実感があったからだとおもう」と続ける。
“実感”とは“心の言葉”と言い換えることができよう。“心の言葉”は祝辞や弔辞の内容にあらわれる。山本嘉次郎氏のいう≪祝辞は短く、弔辞は長く≫じゃないが、特に弔辞は長短に関係なく、それが“心の言葉”か否かである。
一例だが、バイオリニスト五島みどりさんが師事したアイザック・スターン氏の逝去に際し、ご自身が語りかけた弔辞、これこそ心底からの≪哀悼の詞≫だった。
「さまざまな思い出があるはずですが、今は思い浮かべることができない心境です。残された人々にとって、夜が明け日が昇り、そして日没が訪れる時の流れを、感覚として受け止められる日の近いことを望んでいます。無念です」
これほど深く、大きな悲しみの表現があるだろうか。悲哀・涙・永遠・天国などの常套語は皆無である。心底悲しいときには私たちは、悲しさを載せる言葉が見つからない。

二月に海の向こうの敬愛する“朋友”が急逝した。いまなお信じられない。beyond my wordsである。