おしゃれな作法・敬語

「日本人の会釈(軽いお辞儀)の作法は自然の発露である」
60年代半ばに訪日したJean-Paul Sartreが欧米人にない日本人の礼儀作法、美点というべき“会釈・お辞儀”(slight bow)をこのように評した。
お辞儀といえば、ボク自身子供のころ、母親から徹底的に躾けられた。10代半ばの頃である。玄関に来客があれば、必ず迎えに出て、上がりがまちに座ってお辞儀する。これが慣わしである。怠れば、お尻や腕をつねられお仕置きを受けた。あの痛みはいまも覚えている。母は、細々と呉服商を営んでいた祖父の一人娘だった。祖父は高等小学校に通う娘に読み書きそろばんと人付き合いの仕方を渾身で教授した。祖父から母へそして息子や娘へと、作法を厳しく躾けるのが家系であり家風となっている。いま思えば有難いことだ。
「『敬語の使えない子ども多い』という嘆きをよく先生方から聴かされる。・・敬語は一種の『外国語』である。『浴びるように』聴くことでしか身につかない。敬語を修得させようと本当に望むなら、子供たちが『浴びるように』敬語を聴く場を作り上げるしかないだろう。現代日本の家庭で夫婦親子が敬語で対話することはまずない。だとしたら、学校以外のどこで子供たちは『敬語を浴びる』経験を積めばよいのであろうか」U.T先生のご指摘である。学校の役割も大変だ。国語の時間に敬語のイロハを教わる程度で子供たちが日常生活での敬語の作法を習得できるものとは思えない。貞淑を旨とするお嬢さん学校ならいざ知らず、普通の学校で敬語のシャワーを浴びる機会まず期待できない。正しい敬語の作法を教えるのも躾の1つだ。やはり家庭文化、家風によって自然と身につくものである。

幸田文さんが礼儀と作法について語っている--
「礼儀には作法がいり、作法はからだがもとであり、からだは動作から起きる感覚を承知していればしばしば作法にぴたりと叶うということが多い、ということになると思います」
この文さんに対する父露伴の躾はすさまじいの一語に尽きる。家事いっさいはもとより畠仕事までやらされた。ご自身「畠をやらされたおかげで一人の知己を得た。一葉女史の妹、故樋口邦子さんである」と云う。


そして、文さんは回想する---
「同じ年頃の娘をもつこの人が、植込を透かしてうつる私の百姓姿を見のがすことは無い。ふとさした人影に気がつくと、畠と玄関の庭のしきりを押して、笑顔と白足袋が寄って来た。如才無い常識の挨拶を華やかな声で話すうち、目は二三度上下して、私は泥の手足を眺めまわされ恥ずかしかった。途端に低く沈めて、『よくまあなさいます。ああいうおとうさまおかあさまです。あなたはお若い、御辛抱なさいませ。あなたのおかあさまはそれはそれはよくお働きになりました。あなともどうか』一しょう懸命にとは云われず、いきなり私の手はその人の白い手に揉まれ、見ればその高い鼻のわきを玉はつらなり落ちていた。『お怪我などなさいませんように、御十分にお大事に遊ばしませ』さっとからだを折って、『も、そのままにいらして、どうぞおしごとを』と後ろ向きのまま。私はろくに口も利けず立ちつくした。つらいしごとだと思って悲しんだわけでもないのだから、泣いてくれるほどかわいそうがられるのは当たらないことだったが、いたわりのことばを聞いた潤いは否めなかった」

家庭でも学校でも心が潤う、“おしゃれな”言葉や所作が飛び交えば、自ずと子供の躾に効用があろう。てなことを申し上げているボクではあるが、現実は思うようにはいかない。このところ棘のある言葉を発して、後になり冷や汗をかいているありさまである。