“かくありたい”を考えさせられる

愛読書「現代人の論語」(呉智英:文芸春秋社版)を再々読する。

論語」は超ロングセラーだが、注釈付きや現代語訳モノなど(英訳モノもある)のサワリを読んだことはあるものの、恥ずかしながら“積読”に近い。
論語の一句を引用したまではいいが、とんでもない意味違いを犯す人も少なくない。要注意だ。
10年前、某総務長官が汚職事件に関わり、就任わずか一週間で辞任した。
同長官は辞任会見で論語を引用して次のよう弁明した。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
過去のことは追及すべきではないという意味だと思ったらしいが大間違いだ。真意は“行き過ぎは足りないのと同じ”。記者たちから失笑、憫笑が漏れた。
孔子には多くの弟子がいたが、論語に最も多く登場する弟子は子路だ。頭はあまり良くなかったようだが、一本気で純情、憎めないところがあったという。
孔子が弟子たちに「お前たちが『かくありたい』という志があったら、言ってごらん」と問いかけた。

真っ先に口を開いたのが子路である。もと任侠の徒だった子路の言葉が現代語訳されている。
「自分は、愛用のバイクや革ジャンをダチに貸してやった以上、ボロボロにされて返ってきても文句言うようなケチナ男にゃなるまいと思っています」と来た。孔子は苦笑。
仁の模範生と言われた1番弟子の願回の答え--「私は、善いことを自慢することなく、苦労を人に押しつけない、かくありたいと思います」見事な回答だ。
子路が「先生の志をお聞きしたい」と孔子に問いかけた。
子曰く「老人に安らぎを、友人には信頼を、若者には敬慕の念を、こういう気持ちを抱かれるようになりたいものだね」まさに仁の精神だ。
 願回の答えも、孔子に劣らず仁の思想の模範解答だ。が、亜聖として尊敬された願回だが、その割りに印象は薄い。
孔子は仁の精神の模範解答を示しながらも、現実の人生は波乱に満ち、穏やかではなかった。そうした自分を知る孔子にとってみれば、師の思想を必ずしも正しく理解していない“野なる”子路は“微笑ましき無理者”だった。
城山三郎さんの『粗にして野だが、卑にあらず』に通じるものがある。