教わったらまず実行

年頭に論語「公冶長第五」を読む。
 子路有聞。未之能行。唯恐有聞。
(子路は教えられて、まだそれを実行できない間は、更に新しいことを教えられはせぬかと、びくびくしていた)
幸田文が父露伴に「ほんとうに威厳をもって言われました。・・手をもってぶんなぐることはないけど、ひっぱたくに増した気迫というもをもって言われた」と回想する一節がある。


『やってもいないだなんだ。実行というものがそこへつかなくっちゃ、何の言いぐさにもならない。ただくだらない、よまいごとにすぎない。よまよいごとを言うな。実行がついていることは強いんだ。若いうちは、実行がつくと、はじめて相手の言ってることもはやく理解できる。やってみろ。』
さらにピシャッとやられる。
『人が愛情をもって教えてやろうとするのに、しかも、よかれと思って願ってやるのに、実行しないくらいいやな奴ってのはない。そんな時に縁が切れるというもんだ。親子の間でも、ものを習う時は、教える者は一生その事に責任をもってやるものなんだ。まちがいなかったということを、責任をもってやろうとするのが教えるということなんだ。習うということは何だ。受けるってことだ。まず手を出さなければだめだ。聖書は何で読む。あの中に何が書いてある。「たたけよ。さらば、開かれん」とあるじゃないか。「たたけよ」すなわちするってことが先なんだ。それがなくて、手を引っ込めといて、えーってやっとることは、甘ったれのすることだ。やってみろ。』
まず実行の年かな。うまくいかなかったら、やり直せばいい。