“ま・く・ら”重ねて

柳家小三治師匠が今月25日に落語協会会長に就任する。まことに欣快である。
その小三治さんが明日、19日で100回目を迎える≪朝日名人会≫の歩みを語っている。

99年2月に始まった当≪名人会≫、第1回、第2回には古今亭志ん朝師匠が連続出演した。当時頂点を極めていた志ん朝師匠。CM“金松梅ふりかけ”などでしょっちゅうTVでお目にかかる割には、ホールでの落語会に出たがらなかった。その腰の重い志ん朝さんがトリをつとめたものだから、この≪名人会≫は箔がついて人気が定着した。
が、2年後の2001年秋、志ん朝師匠が他界してしまった。享年63歳。兄の馬生師匠も54歳で早世。江戸噺家名跡は短命なのか・・?
01年、重篤にあった志ん朝さんの代役でトリをつとめたのが小三治さんだ。演目は『ドリアン騒動〜備前徳利』。この時の“マクラ”が凄い。
美味でありながら独特の異臭を放つ果物ドリアンををめぐる旅先での“事件”をネタにした36分を超えるマクラから本題『備前徳利』につなげてゆく話芸の妙は今なお語り草になっている。

『ドリアン騒動・・』に触れ、志ん朝さんを偲ぶ小三治さん−−
「『ドリアン騒動』は、志ん朝さんの代わりでしたか。残念でしたねえ、志ん朝さん。なんで死んじゃったんだ。すくってやれる方法。おれは見つけられなかったんだろうか、という悔悟の情、残念に思う気持は消えないね。いつになったら薄れるんだろう。人間として、とっても魅力がありましたね、包容力があるし」(6/18A紙より)

小三治さんと志ん朝さん。生まれは志ん朝さんが1年早い。芸風も違うが、「志ん朝さんは、ほんとに惜しい人でした。もっと、上で輝いていてほしかった」と悔しがる小三治さんが≪笑い≫について自論を披瀝している。
「一口に『笑い』って言いますけど、私は、笑いは落語の場合には付きものではあるけれど、必須や義務ではないと思っています。結果的に笑っちゃうものはいいんですけど、笑わせることはしたくないですね。私が楽しんではなしていると、それに乗ってきて笑うお客さんとは、時を同じくもつ者どうしの『同志』です。
でも時々、笑わせてしまうことがあるんですよ。その時は悔やみますね。笑わせるのは落語の本意ではない。今日の自分を踏み越えてその上へ行くには、笑わせるより、笑っていただく。私の舞台の上の世界に誘うっていうのがいい。それも引きずり込むんじゃなくて、知らないうちにその世界に入ってるような空間が生まれたら素晴らしい。ふっと気がついてみると、景色が見えて、登場人物を演じている噺家は消えてるんです。・・」(6/18A紙より)
志ん朝さんの隙のない高踏派の至芸は黄金色だった。
小三治師匠の絶妙の語りはリアルな風景を浮き彫りにしてくれる。そのいぶし銀の話芸は高度な笑いを誘うものがある。