自然に対する畏敬

Vancouver五輪がはじまった。B.C州最大の都市であり、移民の街とも呼ばれている。ボクはカナダについては不案内だ。


7年前の夏、一週間ばかりPrince GeorgeというB.Cの地方都市(田舎町)を訪れたことがある。
Vancouverから国内線で約1時間のところにある。その街のはずれに創立間もないNBCU(North B.C大学)がある。土地柄、森林学や航空宇宙学など理工科系の盛んな大学だが、正門のBulletin Boardに掲示されている一枚のポスターが目についた。“Less is More”(少ないほど豊かだ)の標語、6月4日のClean Air Dayの案内だ。自然保護のための節減を呼びかけている--Waste Less / Drive Less / Burn Lessの3目標だ。


Prince Georgeの市内は驚くほど閑散としていた。無理もない、Summer Holidaysのシーズンのため、街を離れ長期旅行に出かけている人が多いからだ。車の数より人の数が少ないほどだった。何ら仕事とてない暇な旅だったので、B.C大学出身の案内人の女史と話す時間が多かった。
街にcoloredの市民は皆無に近い。フランス系をはじめドイツ、北欧、バルカン、バルト三国などヨーロッパからの移民住民が圧倒的だ。先住民文化の名残が余り見られないので案内人に訊いてみた。どうも積極的に話したがらない。カナダの先住民に関心を持っている海外の旅行者は稀だとのこと。

今日のカナダ人は先住民のことをthe first nationと呼称する。Canadian IndiansとかNative Canadianなどは呼ばない。さらに驚いたことにはaboriginalsとも呼んでいることだ。aborigineと言えば、Australiaの原住民とばかり思っていたが間違いだ。
真面目にthe first nationsの話しを聞きだすうちに、案内女史は先住民文化を象徴する博物館に連れて行ってくれた。博物館のガイドの先住民の子孫が驚くほど友好的で親切なのには感動した。

案内女史の話によれば、カナダを支配しているヨーロッパ系移住民は心底には先住民に対する負の気持ち(罪悪感)が根深いという。彼らを殺戮、追放し、かの広大な土地を我が物にしたからだろう。いま、その罪滅ぼしか、the first nationsに対する教育と職業技術訓練に相当な力を入れているという。
Less is More--Clean Air Dayも白人が科学技術の進歩に任せて自然環境破壊に狂奔する現状に歯止めをかけんとする現われだろう。
訪れたPrince Georgeの街に日本人はほとんどいなかったが、長くカナダに居住し新種のビールを開発、そのプレゼンテーションをやっていた神戸出身の初老の婦人の傲慢さにはあきれた。米国人と違った、カナダの人たちの良き国民性ともいうべきreserved(控えめさ)は微塵も感じられない。arrogant(横柄で尊大)そのものの態度にはガックリした。
Vancouver五輪の開会式の表舞台にthe first nationを登場させさせたのは好感をもつ。
が、移民国家、移民社会とはいえ、フィギュア・スケートなどの競技に中国人が出場すると突如、異様な歓声・拍手が沸き、熱狂する風景に一種の違和感を感じる。カナダも州によって文化が違い、havesとhave-notsの格差は著しい。他国が羨ましいほどの自然美に溢れた国だ。


ボクたちもカナダに住む人たちも、昨日敬愛する我が親友を葬送したNZの心ある民衆に学び、次のRachel Carsonの“The Sense of Wonder”の言葉を改めて胸に刻み自然に対する畏敬を失ってはならいと自戒したい。
「多くの親は、熱心で繊細に子どもの好奇心にふれるたびに、さまざまな生きものたちが住む複雑な自然界について自分がなにも知らないことに気がつき、しばしば、どうしてよいかわからなくなります。そして、『自分の子どもに自然のことを教えるなんて、とうしたらできるのでしょう。わたしは、そこにいる鳥の名前すら知らないのに!』と嘆きの声をあげるのです。
 わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもに教育すべか頭を悩ませている親にとっても、『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」
そして、三十五歳で夭折した詩人、風のように来り、風のように去った立原道造は≪風に寄せて≫のなかで、次のように詠っている。
  なぜ、僕らが、あのはるかな空に、風よ
  おまへのやうに溶けて行つてはいけないのだらうか