曖昧な言葉、当たりのいい言葉の裏側にあるものは・・

もう八年前になるが、2002年にいわゆる「有事立法」関連法案が国会で審議され大きな問題になった。まず、≪有事≫という言葉の真義がわかりにくい。
翌03年1月、小冊子「岩波ブックレット」に加藤周一氏による東大新入生対象の講演録『学ぶこと 思うこと』が掲載された。
このタイトルは論語の「為政第二 一五」のなかの『学而不思則罔』(学びて思わざれば罔し)『思而不学則殆』(思いて学ばざれば殆し)を基本としたものだ。加藤さんは言葉の定義の重要性に言及して、言葉を正確に定義せず故意にごまかしぼんやりさせる典型的な世界が我が国の政界・国会答弁にあると明言。「たとえば『戦争』という代わりに『有事』などというのがそうです。この言葉の定義は、大いに疑わしいと思いませんか。有事法制をいま議会で議論していますけれど、『有事』っていうのは『戦争』の意味でしょう。『事が有る』というくらいのぼんやりした表現では、地震や天候不順だって『有事』と言えないことはありません。しかし、この『有事』という言葉が指している事柄は戦争・・。こういう言葉の言い換えは、わざと意識して行っているものだろうと、私は思います」

「わざとぼんやりさせるということは政治的世界ではよくありますが、人の心に反発を感じさせないように言葉を言い換えて和らげる、嫌なこともそう悪くないように聞こえるように言い回す。大概の場合、きれいなほうに、あまり嫌じゃないほうへと言い換えるのです。それが『ユーフェミズム(euphemism)』です。・・要するに『当たりがいいように言い換えること』です。政治では頻繁に使われますから、もう少し正確にいえばなんだろう、ということを考える必要がありますね。そうでないと話は先に進まないのです」

さらに冷戦時代が終わった前世紀末あたりから使われだしたglobalization(グローバリゼーション)、ボク自身当初から今に至るまで怪しい言葉の一つとして捉えている。この言葉にも加藤さんが触れている---
「もうひとつ、空間的、同時的に見ればどうか、ということを考えてみましょう。ひとつの例が、グローバリゼーション。この意味するところを大まかに言うならば、関税障壁を低くした自由市場の一般化を通じて国際的に大企業の活動を自由化する、ということになるのではないかと思います。
そこで『大企業』といったとき、いったいどこの大企業かという問題があります。国際的な企業、多国籍企業ですが、その多国籍企業の本社はどこなのか、多国籍企業の多国籍の中にどのくらいの国籍が入っているのか、そのなかの主役を演じているのはどこの国のどういう企業なのか、ということを考えたほうがいいですね。そういったことはあまり広告などに出てきません。それは沈黙による一種のユーフェミズムです。皆さんは自分でそういうことを発見しなければなりません。グローバリゼーションは、そういう複雑な問題を含んでいると思います。グローバリゼーションが進めば世の中がめでたくなる、などと簡単に考えてはいけません」
加藤さんの言葉は明解で、曖昧さがない。
一昨年惜しまれて他界した“20世紀の巨人--偉大な知識人”、加藤周一への“28人がつづるオマージュ”「冥誕 加藤周一 追悼」が手許にある。
オマージュの意味を辞書で調べた。“hommage”(賛辞・献辞)である。
書名の≪冥誕≫なる言葉もボクには始めての出逢いである。

編者I氏がこの書名の由来について解説している---
「≪冥誕≫はあまり見かけない言葉ですが、加藤さんがしばしば中国の詩文についての教えを乞われた一海知義さんによれば『百歳冥誕』などと用い、『単に死者の誕生日を冥壽というのとはちがった特別な意味が』あり、生き残ったものたちが、先に逝かれた『身近な先達を、こころをこめて追悼し、そのすぐれた業績を記念する』意志をこめて使うことばだそうです」
そして“書名検討のおり、つねに見事な漢語を用意された加藤さんに嗤われるでしょうか”とI氏は結んでいる。

加藤周一さんはボクなどにとっては“身近な先達”どころか雲の上の偉大な存在である。ただ至宝ともいうべき同氏の数々の書籍は、日時と歳月をかけてでも熟読しなきゃならないと近頃しきりに考えている。