一流の師との出会い・・

50年代初めに、芸能月刊誌に『平凡』を追いかける?形で集英社が『明星』を創刊した。第1号の表紙を飾ったのが美空ひばり、70年代『平凡』に劣らぬ人気雑誌として売れ行きが伸び、同社のドル箱雑誌となった。が、今では『明星』が『Myojo』に変わり、存続している。
さて、本日取り上げるのは同じ『明星』でも、我が国草分けの文芸誌『明星』である。1900年4月に刊行の月刊文芸誌。同人結社東京新詩社の機関誌として与謝野鉄幹が主宰となり創刊されたが、1908年11月の第100号をもって廃刊された。短命だったのは、第8号に裸体画(挿画画家・一条成美による仏絵画の模写))二枚が掲載されたことで、「風俗壊乱」として内務省に発禁処分を受けたからだろう【Wikipedia参照】

1904年、この『明星』に与謝野晶子「君死ぬたまふことなかれ」が掲載され論議を呼んでいる。


ところで、『明星』の監修に協力し歌文を寄稿した、歌人・国文学者が落合直文である。鉄幹は直文を敬愛し門弟となっている。
が、鉄幹が弟子入りしたいと言うのに対し直文は、「予は恐らく君の師たるに当たらず、唯共に研鑽せんのみ」と語った。

また、当時、直文が教鞭をとっていた国学院大学に入るべきかと鉄幹が尋ねたところ、「君の才を以って何れの学校にも入るの要無し。唯自から読むべし」と直文は諭し、「方今先生の外、誰に教えを乞ふべきか」と鉄幹が問うのに対し、「唯森鴎外に紹介せん、多くは彼に聴くべし。凡庸なる人間に一たび『先生』と呼ばば終生その風下に立たざるべからず、書を読まば、最上の書を、師を択ばば第一流の人」をと答えて、鴎外に対する紹介状を与えたという。--わが師Y先生著≪鉄幹・昌子とその時代≫参照---
ボク自身、一流の師と最上の書に出逢うことができたと感謝しているが・・。