“追憶”とはかくの如きもの

芥川龍之介自死する“最晩年”(1926年〜1927年)に45編の≪追憶≫を記している。当時の文藝春秋に連載され、没後『侏儒の言葉』に所収された。
“追憶”も英語で言えばrecollection:reminiscence。“思い出”とほとんど同義に扱うしかないが、日本語の意は≪過ぎ去った日や亡くなった人とのあれこれを懐かしく思い出すこと≫とある。

龍之介全集第13巻に収められている“追憶”のなかから二編を拾ってみる。
  『埃』と題して---
「僕の記憶の始まりは数へ年の四つの時のことである。と言つても大した記憶ではない。唯広さんと言ふ大工が一人、梯子か何かに乗つたまま玄能で天井を叩いてゐる、天井からはぱつぱつと埃が出る---そんな風景を覚えてゐるのである。
これは江戸の昔から祖父や父の住んでゐた古家を毀した時のことである。僕は数へ四つの秋、新らしい家に住むやうになつた。従って古家を毀したのは遅くもその年の春だつたであらう。」
    『体刑』と題して----
「僕の小学校にゐた頃には体刑も決して珍しくはなかつた。それも横顔を張りつける位ではない。胸ぐらをとつて小突きまはしたり、床の上へ突き倒したりしたものである。僕も一度は撲られた上、習字のお双紙をさし上げたまま、半時間も立たされてゐたこともあつた。かう云ふ時に撲られるのは格別痛みを感ずるものでもない。しかし、大勢の生徒の前に立たされてゐるのは切ないものである。僕はいつか伊太利のフアツシヨは社会主義にヒマシユを飲ませ、腹下しを起させると云ふ話を聞き、忽ち薄汚いベンチの上に立つた僕自身の姿を思ひ出したりした。のみならずフアツシヨの刑罰も或いは存外当人には残酷ではないかと考へたりした。」


≪体刑≫とは今で言えば禁止されている≪体罰≫と云うべきだが、芥川の喰らった体刑となると、体罰を超えて惨めな虐待だ。これもご本人にとっては“懐かしい思い出”・・。追憶とはかくあるべし?