優秀な官僚たちも憂愁・・

脱官僚、政治主導を看板としてスータトしたDPJ政権だが、誰の目にもこのところの迷走と失速の実態が明らかだ。鳴り物入りの“予算の無駄を洗い出す”行政刷新会議だが、当初の「事業仕分け人」32名が、闇将軍O幹事長の待ったの一声で7人に斬られた。「議員だけでは何も出来ない」とO幹事長、新米議員を総引き揚げさせ、研修・見習いに力を注ぐべしというわけだ。代わりに20人以上の民間人を加えるらしい。

ところで、官僚たちはどのように扱われてるの?

本日のA紙オピニオン≪日本の官僚は異質か≫のなかから、識者の印象に残ったコメントを拾ってみる。
「政治主導に変えるためには、まず官僚に何をさせるのかをはっきりさせなければならない。新政権は政と官との役割分担を改めて整理する必要がある。それは政治家は何をするのか、自らの役割を問い直すことでもある」
「新政権は、官僚の記者会見や国会答弁の禁止など、官の役割を見直す方針を明らかにしている。官僚主導から脱却するにはそうした取り組みも必要だろう。しかし、既得権益としがらみを断ち切る英知と決断を示した明治の政治家たちの足跡をいま一度振り返り、時代に合った官僚制のあり方を根本から議論してほしい」
「日本の公務員のプロ意識は維持すべきだが、やり方を変えるべき点は多い」
時代に合った官僚制、公務員のプロ意識といえば、高度経済成長の60年代における最も個性的である種典型的な一官僚を描いた作品が城山三郎官僚たちの夏』である。同書(新潮文庫)の文末でK経済評論家が解説している。

「主人公、風越信吾は“悪名高き通産”官僚だ。ある意味で風越は極めて官僚的であり、ある意味ではまったく非官僚的であるという複雑な混合人格である。前者は、『おれのしていることは絶対に国家のため、国民のためになる』という強烈な自信である。それが、時として説明不足となり、高圧的にうけとられたりする。後者は、秀才官僚にありがちな打算、保身のテクニックを全く欠いていることである。相手が大臣だろうが、財界の大立者だろうが、歯にキヌをきせず直言する。『お役所仕事』というイメージとはほど遠いのである。服装も暑ければ、ネクタイをはずしワイシャツの腕をまくり上げ、談論風発する野人タイプである。だから身に近く接した人間にとっては、たまらない魅力を持つと同時に、肌のあわぬ人間、ふだんから頭を下げられつけている政治家にとっては、こんな虫のすかぬ男もない。とにかく理屈にあわぬことは全然便宜を計ってくれないのだから。
風越は出世欲がうすい。ない、といえばウソになるが、それは仕事欲のためである。課長より局長が、局長より次官が大きな仕事をやれる。えらくなって威張りたいためではなく、仕事を最大限までやる舞台がほしいのである」

時代は60年代と比べようもないが、今の時代に相応しいプロ官僚に仕事の舞台を与えることも、DPJ政権にとって重要な課題ではないか。それとも新闇将軍だけではなく、政権幹部諸氏にとって優秀な官僚はかえって邪魔なのか? 上意下達に徹し頭を下げる家来でなけりゃ困るのか?

憂愁の“官僚たちの冬”が近づく。