海外で“眼の福”と“口の果報”にあずっかたが・・

今や名実とも世界のleading voiceとなったPresident Obamaにとって今回のItalyでのG8は初めてだが、開催地が大震災の傷跡の癒えないL'Aquilaが選ばれたのは驚きだ。出席した首脳にとっては景観を観賞して“眼の福”にあずかるどころではなかったはずだ。
今なおテント暮らしの罹災者のなかには複雑な心境を超えて、怒りを口にする人たちもいる。各国首脳とも記者会見でまず、お悔やみの言葉を述べなければなるまい。
今回のG8だが、扱う世界的難題が多すぎる。わずか三日の会議で解決に導くことのできる問題などあるわけがない。
幸田文氏の妙台詞を借りれば「せかせかと急かれつづけだったという感じが濃い」「とにかく万事とばとばしている」ということになる。
その点、先月のボクたちのFirenzeを中心したとItalyの旅はお蔭さまで“眼の福”と“口の果報”にあずかった。


この言い方に出逢ったのは同女史のエッセー「雀の手帖」(新潮社文庫)の一文≪口業≫のなかだ。
「おもいがけなくいい美術品などを見るとことができたとき、きょうは眼の福を頂きました。などというし、おいしいものを御馳走になったりすると、口の果報にあずかりまして、というように以前は挨拶していた。私にはききなれた言葉だが、いまはいわない。業(ごう)というのもいまはいわない。言うことは言うが、人を傷つけ不愉快にさせトラブルをおこす、こういう人を−あの人も悪い人じゃないのに、口業(くごう)の強い生まれなんだねぇ、というのである。口に業がある、ともいう。・・」
このような丁寧で味わいのある挨拶はもう絶えて久しい。挨拶の言葉どころか、文章語としても意味が通じない。なんとも近頃は無味乾燥な言葉のやり取りが多い。
梅雨明けにでもなれば、近くの“眼の福”にあずかる場所に出かけたいものだ。ついでに“口の果報”も・・