憲法は制度ではない-歴史の所産、未来に継がれる理念(決意と希望)だ

11年前、53歳で急逝された元岩波書店長安江良介氏のエッセー集『同時代を見る眼』を再読。その中の≪基本法としての憲法≫に改めて覚醒されられた。


安江氏は、ユネスコ憲章前文の冒頭の言葉『戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない』に触れ、「第二次大戦直後、・・・少年であった私たちにも、この言葉は、つよい響きをもつものであった」と語る。
そのうえで同氏は続ける。
「だが、近ごろは、若い人たちにたずねてもこの言葉を知らない人が多い。私たちの社会は、すでにこの言葉を無用とするほど確かなものとして築かれたのであろうか。あるいは、あれはひとときの感傷の言葉だった、と人々はいうのであろうか。・・・
 昨今盛んに改憲論は現実論と制度論に傾き、憲法の理念・哲学と歴史を省みることはほとんどない。すなわち次のようにいう。
『問題は、平和を守るにはどうすべきかという≪平和の方法≫だ』(Y紙)
『新しい改憲論は過去の復古的な改憲論と異なり、平和主義、基本的人権といった憲法の基本原則をより良く生かすための改憲論だ』(M紙)
 こうした見方が多いようだが、はたしてそうだろうか。
 ・・・憲法とは、その社会の歴史の所産であり、未来への決意と希望であり、それによって生きていくのである。
 この歴史と理念に足場を設けず、専ら制度や方法に目を向ける憲法論は、本質的に最も危うく、最も怪しい、と私は思う。」
安江氏の話によれば、自民党憲法調査会に招かれたある若い憲法学者が次のように迷言したという。
憲法なんて、しょせんどさくさまぎれにつくる基本文書だから、・・・国民に希望を持たせるために美しい言葉をたくさん使うんだ』
表立った改憲派の動きが見られない今こそ一層要警戒だ。
その早世が惜しみても余りある優れたジャーナリスト安江氏の視点は鋭く的を射ている。
まさに“美しい日本の私”よりも“あいまいな日本の私”だ。