漫画大国ニッポンのあり方は・・?

昭和天皇崩御し、美空ひばりが早世した1989年という年は多くの日本人にとって忘れられない年だろう。
この年、もう一人その道の大家が亡くなっている。漫画を“子供の読み物”から“日本文化を象徴する文化”に育て上げた手塚治虫が60歳で他界した。当時、彼はボクと同じ街に住んでいたが、幼年時から20代半ばまで、宝塚で育った。その宝塚の駅前に手塚治虫記念館が開館したのが1994年、その年の夏、早速長男と遠くまで見に出かけた。阪神淡路大地震の前年のことである。
1997年、“マンガ文化の健全な発展”を目的に、手塚治虫文化賞が制定された。今年ではや第13回目、このほどマンガ大賞などが決まった。

日本はいまや漫画大国。世界一の漫画生産国であり、漫画ファンの多い国である。
日本を訪れた外国人が仰天する。いい歳の大人が漫画を夢中で読んでいる。電車の中は漫画本を抱えたサラリーマンや学生でいっぱいだ。
手塚治虫はこうした状況をどのようにみていたか・・?
「こういう状況を見て肝をつぶした外国人は、なぜ日本がこうなのかと、首をかしげ、分析してみる。日本人は頭脳が幼稚で子供っぽいのか? 日本の漫画が活字の読物を凌駕するほど優れているのか? それともなにか東洋独特の催眠術にかかっているのだろうか?
 四十年漫画を描いてきた私にすら、その理由はわからない。ただこれだけは言える。漫画は、元来、絵だと思われてきた。しかし漫画の本質は絵ではなく、何か別の要素(記号のような)でつくられたメディアなのではないだろうか。・・・・
 日本人は、その記号をたくみにあやつり、メッセージを上手に送る方法を発達させた。つまり漫画が新しいコミュニケーションのメディアとして確立されたのだ、と私は考える。それならば日本の漫画は海を越えて外国の人々に理解されていいはずだ。もちろん、そのメッセージが国際的にすぐれたものであるならば、だ。その点では、現状は、いささか首をかしげざるを得ないのだが」(手塚治虫大全より)
1985年、手塚治虫氏56歳のときの観方だが、まさに電車の中でコミックにのめりこんでいるこんにちの“漫画中毒者”が、ページをめくる手を止めてふと考えるべき含蓄に富んだ分析というべきだ。