今年ももうあと一週間と残っていない

芥川龍之介に「年末の一日」という作がある。10枚にも満たない小品だ。
1923年、関東大震災で焼け出され、日暮里に転居。短い期間だが、田端に移ってきた芥川と交友を深めた久保田万太郎がその作品の筋書きを記している。

「年末、ある新聞社の人を案内して夏目先生のお墓まゐりをしたところ、どう道を間違へたか、行けども行けどもお墓のまへまで出なかつた。墓掃除の女に訊いたりした、結局は分かつたものの、そのときはもうあぐねつくし、疲れ切つてゐた。そのあとその連れとわかれ、一人とぼとぼした感じに田端まで帰り、墓地裏の、八幡坂まで達したとき、たまたまそこに、その坂を上りなやんでゐる胞衣会社の車をみ出した。自分の萎えた氣もちを救ふため、無理から力を出し、ぐんぐんとその車のあとを押した・・・といふのがその作の筋である」
「年末の一日」は次のような哀しい結尾で終わっている。
『北風は長い坂の上から時々まつ直に吹き下ろして来た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふう薄暗がりの中に妙な興奮を感じながらまるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた・・・』
1925年(大正14年)の作である。二年後の27年(昭和2年)、芥川は1月に『玄鶴山房』を、三月に『河童』を・・、そして、同年7月、田端の自宅で自裁した。
この年の瀬、『・・闘ふやうに一心に箱車を押しつづける』芥川の惨めな苦悶の姿と重なり合う人びとも少なくなかろう。
万太郎は日記『年末』を次のように結んでいる。

『外は雨が降つてゐる。落葉を濡らして止むけしきもなくふりつづけてゐる。・・・貼りかへた障子、表替をした畳、今年ももうあと一週間と残つてゐない』