もう読めない「夕陽妄語」--加藤周一(その3)

1984年よりA紙夕刊に月一回、加藤周一氏は400字詰め原稿用紙にして6,7枚の批評を書き綴ってきた。『夕陽妄語』。驚異的な博識による縦横無尽の切り口、真のリベラリスト加藤氏の面目躍如のエッセイである。

夕陽妄語』は同氏が1983年頃滞在していたヴェネツィアの夕暮れから始まったという。
「夕陽」の意味するものはなんだろうか。衰えや終末観は感じられない。むしろ高台から眺めた夕日の美しさか。「万葉集」の語句『近江の海夕なみ千鳥』にみる日本語の美しさに目覚めた思い出か・・。
「妄語」とは? あるいは吉田兼好(徒然草)のいう『心にうつるよしなしごと』にも譬えられよう。
ボクにとっては難解だったが、夕刊に加藤氏の顔写真とともに『夕陽妄語』が掲載されると必ず切り取りコピー、ファイルしたものだ。
この名批評も7月をもって絶筆になったとか・・。
ベルリン自由大学の某教授(日本文学研究者)が『夕陽・・』の一部を引き合いに出しコメントしている。
「『明日を思い患うこと少なく、長い日本文化の伝算の分捕りに、週刊誌は毒殺事件に、女性雑誌は、今すぐいかにして痩せるかに、NHKは台風が今どこへ向かっているかに。そういう関心のあり方には、確かに一種の生活の智恵がないとはいえない。しかしその限界もあるだろう、と私は思う。』この描写や分析から私が強い印象を受けるのは、社会生活全般への無関心さの背景に、加藤氏が伝統的な日本人の態度を認めているという事実です。景気の動向は自然現象ではなく人間がその原因となっており、それは他の国々の経済にも大きな影響を及ぼすからです。そして加藤氏は、不況脱出の過程において、日本が文化的水準の低下と創造力の衰退という犠牲を払うのではとの危惧を述べておられます」

今から10年前の論述ではあるが、こんにちの政界財界の偉い方やメディア関係者こそ読み解くべき指摘ではないか。