諸行無常--“有難き幸せ”とは?

3/11から早や2ヶ月。あらためて受難の極にある被災地・罹災者に思いを寄せざるを得ない。
この間の母の日、未だ廃墟と化したままの彼の地の白木の墓標に寄り添うように手向けられた白いカーネーションこそ哀れ。無情で非情だ。

1950年代半ば、もう半世紀以上前の昔日、高一の古文の教科書での最初の出逢いは「徒然草」だった。今も定番になっているはずだ。
『つれづれなるままに、ひぐらし硯にむかひて...』に高校生なりに死生観を覚えたものだ。諸行無常に通じるものだ。

平家物語」の冒頭『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり...』と軌を一にする。
兼好法師曰く『死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し』

死は前からやって来るとは限らない。前から来れば覚悟も出来よう。が、むしろ、気付かぬうちにそっと、また突如背後に迫ってくる。
兼好はさらに語る『人はただ、無常の身に迫りぬることを心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなり』
諸行無常なることを束の間も忘れてはならぬと説く。
『朝に紅顔ありて夕に白骨となれる身なり』--浄土真宗の葬儀のときよく耳にする蓮如上人の御文章である。

巨大津波の無常の手が人々の生と死を引き裂いた。若いとか強いとかは死の手にとっては関係ないことだ。
死の手を逃れてこられたと云うことは、「有難き」ことであり、「不思議」なことである。このように実感しているのは、被災地の方々に限らずボクたちとて同じだ。


「ありがたき」の意味は漢字が表している。有ること、つまり、存在することが難しいという原義から、滅多にない、珍しい、という意味。「不思議」とは、仏教の言葉で、思いはかることも、言葉に表現することもできないこと。
生きているという事実こそ、滅多にない、人間の思惟の及ばぬ奇跡だと読み取れる。かかる仏教の死生観は決してpessimismなどではない。

無常の世界で生きていることに喜びを感じ、生きている限り、“Live your good life”“Live well”“Look ahead”なりだ。