クロサワが存在した意義

他界したのがつい昨日のように思える黒澤明監督だが、今年が生誕100年目になる。この17日〜年末まで、国立近代美術館フィルムセンター展示室で『生誕百年 映画監督 黒澤明』展が行なわれる。
昨日の≪週間ブックレビュー≫で「黒澤明を読む」を拝見した。

黒澤監督の関連書は多い。他界された86年以降も数々の貴重な自著・資料や黒澤さんに縁深い人たちの書籍が次々と出版されている。中でも監督のエコンテが見ものだ。絵コンテというより1つ1つが絵画となっているといってもよいほどの価値在るものだ。


『悪魔のように細心に天使のように大胆に』を手に入れようと思ったら、絶版で書店にもなく入手するにはいささか高価すぎる。

それでも何冊か貴重な関連書の中古本を発注した。
黒澤作品と云えば最も強烈なインパクトを受けたのが1957年封切りの『蜘蛛巣城』だ。高校時代に観た。≪マクベス≫を底本とした名品だ。これの影響か、
大学時代、立ち上げた演劇集団で福田恒存訳の『マクベス』を上演した。無謀というほかないが、3時間に及ぶ素人芝居を舞台化した。
蜘蛛巣城』より3年前の54年に製作・封切られた『七人の侍』は大学時代にはじめて見た。そして、その後繰り返し繰り返し観た。

黒澤の本格的な関連書の草分けは佐藤忠男氏の「黒沢明の世界」(1969年初版三一書房)だろう。1965年製作の『赤ひげ』までの作品について論じているが、日本の映画評論家による本格的な大著の研究書である。同書の≪はじめに≫に佐藤氏が述べている−−
黒沢明の作品について語ることは、戦争中から『戦後』にかけての精神のひとつの典型について語ることになると思う。もちろん、『戦中』『戦後』の精神とは、きわめて多様な側面をもつものでって、黒沢明を語ることによってその全てを語ることはできない。しかし、黒沢明がこの時代の日本のもっとも重要な芸術家の一人であることはまちがいない。いま、この時代の次の時代を生きようとしているわれわれにとって、黒沢明は、すでに、ひとつの大きな伝統である。この伝統がもつ意味を探ってみたいと思う」

60年代当時、黒沢明研究書が仏米で出版されていたものの、日本人よる研究書は皆無だったと思う。なぜか「日本の映画作家に関して、一人について一冊の研究書が、日本人によって書かれ出版された例は極めて少ない」と佐藤氏も言っている。せいぜい溝口健二“論”?ぐらいのものだった。
51年ベネツィア国際映画祭で『羅生門』が外国映画として初のグランプリを受賞、世界のクロサワを世に知らしめた。
が、黒澤自身、仏映画雑誌のインタビューのなかで次のように語っている−
「私は『羅生門』が日本映画の代表作だと考えているのではない。しかし、私は、人があのグラン・プリは偶然の結果だとか、エキゾチックなムードのためだとかいうのを好まない。どうして、そんな狭い料簡をもつのか。何故、自分自身を蔑視するのか、私たちは映画の水準をあげることを考えなければいけないのだ。日本に、溝口や小津の完全な研究ひとつないというのははずかしいことだ」

1970年公開された『トラ・トラ・トラ』。黒澤はこの日本側監督を解任された。意外な事件だ。解任はこの作品の原稿がすっかり印刷所に入ってから起きた。「よいスタッフに恵まれなかったことと、米映画のの製作システムに調子を合わせることができなかったことが、主要因だったようだ。たいへんな情熱をこめた仕事が中途で挫折したことはお気の毒であるが、しかし私は、黒沢明が、米映画の監督として失敗したことは、彼にとって少しも恥ずべきこどてはないばかりか、失礼ないい方かもしれないが、むしろ良かったことであるように思えてならない。黒沢明には日本映画をつくってもらいたい。日本映画の監督として偉大であってほしい」
佐藤忠男氏は「黒沢明の研究」の≪あとがき≫をこうように締めくくっている。黒沢はもういないが、黒沢の影響を受け、心酔するアメリカの名匠が何人もいる。

海外には名映画作家が次々と登場している。米国など海外作品を追随することなく、我が国独自の国際的名画を製作する日本の映画芸術家の輩出を待ち望んでいる。