The Potsdam今昔

独HamburgのMuslimsのモスク(mosque)が閉鎖された。9/11Terror Attack以来アルカイーダ、狂信的聖戦グループの本拠となっているとみなし、当局が封鎖に乗り出したわけだ。

Terror Attackと性格を異にするが、前世紀第2次大戦における最大の殺戮はHitlerのホロコースト、そして米軍のヒロシマナガサキへの原爆投下だろう。
Atomic bombingsはいつ決定されたのか。その理由と正当性は? 65年経った今夏も内外での論議は収まらない。
原爆投下の決定は同じドイツ(当時の東独)Potsdamが舞台となった。

The Potsdam Declaration(ポツダム宣言)は1945年7月26日、大日本帝国(日本)に対して発せられた。宣言を発した各国の名をとって『米英支ソ四国共同宣言』とも呼ばれるが、実際に宣言に加わったのはだれか・・?
会談に参加していたソ連は、日本に対し中立の立場をとっていたため宣言に加わっていない。英国代表チャーチルは本国での総選挙敗北の報を受け急遽帰国、後継首相アトリーは総選挙後の後始末のため不在、さらに中華民国蒋介石は会談そのものに参加していなかった。そのためトルーマン(Harry S Truman)自身が三人分の署名を行なったという。

宣言の骨子はよく知られている通りだ。
冒頭第1条において、「日本国に対し戦争を終結する機会を与える」、第3条で「日本が軍国主義者の指導を引き続きう受けるかそれとも理性の道を選ぶべき時が到来した」とし、末尾第13条に於いて、全日本軍の無条件降伏を求め「これ以外の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」と通告している。
かくしてThe PotsdamはTrumanの独壇場となった。彼はPotsdamをthe little White Houseと呼んだ程だ。ポツダム会談のためBerlinに滞在中のTrumanのもとへ7月14日、New Mexicoでの原爆実験成功のニュースが飛び込んできた。これに触発され、Winston Churchillに強く勧められ、米国が日本帝国に“無条件降伏”かそれとも“完膚なきまでの破滅の道”か、二者択一を迫る文書を「ポツダム線宣言」送付したのである。日本の返答は“黙殺”だった。鈴木貫太郎首相の≪黙殺≫のひと言が米国に原爆投下へと踏み切らせたという説がある。「黙殺」を同盟通信は“ignore it entirely”(全面的に無視)と訳し、ReutersとAP通信は“Reject”と訳し報道された。これらは“誤訳”と云うべきだろう。
The CS Monitorのスタッフライターはこれを“roughly, forget it”(真剣に検討しない。念頭に置かない)としている。

≪黙殺≫の英訳の違いはともかく、この鈴木貫太郎首相の返答にTrumanが激怒してヒロシマナガサキへの原爆投下に踏み切ったとする説は間違いのようだ。
1945年4月の時点で原爆の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原爆投下命令はポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行なわれている。共和党の大物の多くが日本への原爆使用に反対していたこともあり、トルーマンは投下決定を共和党側に伏せたまま、先にスターリンに知らせたという。共和党系とみなされていた米軍将軍たちに原爆投下決定を伝えたのは投下の二日前だった。日本への原爆の使用について後の大統領アイゼンハワーマッカーサー元帥は反対意見を具申している。
8/6日、ヒロシマが原爆で煉獄と化しているとき、トルーマンポツダムからの帰路にあった。大西洋上の巡洋艦オーガスタの艦上で、原爆投下成功の報を受け、次のような声明を発した。
「1942年以来原子兵器の完成が米、英とドイツの間で行なわれてきた。だが我々が勝った。廿億ドルの予算と12万人の人員で我々はこの史上最大の科学的冒険で勝利を得たのである。史上最初の原爆が軍事基地であるヒロシマに落とされたのは非戦闘員の死傷を少なくするためであった。これは警告であり、日本が降伏しない限り引続き原爆を使用する。不幸にも日本で多数の非戦闘員の生命が失われるだろう。日本の非戦闘員が即刻工業都市を去ることを勧告する。私は原爆の悲劇的な意義を理解している。我々がこれを使用したのは戦争の苦痛を短縮し、多数のアメリカ青年の生命を救うためである」
ヒロシマナガサキへの原爆投下を≪科学的冒険の勝利≫とするこの声明には言葉も出ないが、このトルーマンの表明が今なお米国保守派による≪原爆投下の正当化≫の基礎になっているのは否定できない。

ともあれ、この原爆投下によるキノコ雲が新たな時代、≪冷戦の時代≫の幕開けとなった。そして、トルーマン大統領がヒロシマへの原爆投下の決定を下した場所なったポツダムトルーマンにとって「聖なる遺産」の記念碑となりうるか、論議が巻き起こっている。

冷戦期、Truman's villaは東独にとって格好のプロパガンダとなった。「米国帝国主義者が原爆投下を決定した悪夢の館」というラベルを貼られていた。
PotsdamはTruman Place(Trumanplatz)かそれともHiroshima Place(Hiroshimaplatz)か?


目下未完成の架空の記念館だが、トルーマンが住んだ館に次のような一文を刻もうとする構想が持ち上がっている。
“From 17 July to 2 August the US President Harry S. Truman lived in the villa opposite. During this period the order to drop the Atomic Bomb was given...by the president its destructive power killed hundreds of thousands and brought terrible suffering to the people.”
Truman Houseの創設を求める某米国人はこの構想は“悪意に満ちたものだ”と猛反対だ。「トルーマンと原爆投下決定の経緯と歴史を歪めるものだ。ナガサキへの原爆投下によりく戦争の終結を早め、日本に占領された東アジアや他の諸国の開放につながった」