一葉礼賛−夏子は強かった

24歳で労咳により早世した樋口一葉。近代日本の女性職業作家として歴史に名を残した。本名は奈津。なつ子、夏子とも称する。
「女史の小説に就ては、たけくらべを読むまでは余り多く感服せなかった」と評した幸田露伴の一葉観が面白い。

○故樋口一葉女史は一見した所、先ず薄皮立の締つた、聡明そうに顔した人
 であった、敢えて醜いと云ふ程ではないが、去りとて非常な美人ではなか
 つた、寧ろ妹の方が顔立は好かつたやうに思ふ。
○其れから又応対が巧みであつた、進退動作節に合して決して人を反らさな
 い、是迄の生涯が如何に辛労の生涯であつたかは是に依つても察せられ、
 婦人で少し学問でもある者は漢語などを殊更に交へ至極生意気臭いもの  だが、女史に於いては決してもそう云ふ事はなかつた、能く消化の出来た
 言葉付であつた。
○余が女史に面したのは至つて僅かの時間故、其性質の如何まで深く立ち入
 つて研究する事は出来なかつたが、負けぬ気の、物に耐へる力ある、冷
 澹ならざる−−然しながら人の腹の中で批評し得ぬ程馬鹿でない人である
 事は知られた。

あれよあれよと云う間に梅雨明け。今日17日、猛暑日となった。後Ⅰヶ月すれば盂蘭盆。亡き人の新盆を迎える方も・・。
井上ひさしの戯曲に夏子(一葉)の新盆をイメージした一場面が見られる(「頭痛肩こり樋口一葉」)。夏子の死後の世界。その語りが凄い。

□(夏子に)ねえ、ご自分の新盆の感想はいかが?
◆夏子−−べつに・・・。
□    あら、御魂さまになって自分がもと住んでいた家を訪ねたのに何
     の感想もないの。おもしろくないの。
◆夏子−−べつに。わたしは生きていた時分から心をこっち側へ、死の世界へ    へ移していましたから、なにかも予想していたとおりなんです。

             −−−−−−−−−
◆夏子−−世間には「婦人はかくあるべし」という常識がたくさんありまし
     た。娘のときなら「母の許しのないものはだめ」。そのあとは 
     「世間の笑いものになってはだめ」。戸主になれば「家名を大切
     にしなくてはだめ」。・・・そういうたくさんの常識に取り憑か
     れて、息がつまって死にそうでした。でもその常識に歯向かう勇
     気がない。母の許しそうもない恋を諦め、世間が許しそうもない
     男どもと往き来するのもやめました。でも、そうやって自分を殺
     して生きるのはとても辛い。悲しい。情けない。つまらない。そ
     こでわたしは自分の心の健康のために「世間なんて虚仮だ」と思
     うことにしたんです。「世間とは因縁の糸でできた大きな大きな
     網。その網は、とくに女になにもさせないようにできている。そ
     んな世間に大人しくおさまっていてやるものか」。そう思うこと
     にしたんです。死の世界へ心を移して、世間を、世間の常識を一
     銭五厘の玩具あつかいにしてやったんです。臆病者の護身術みた
     いなものかしら。でもおかげで常識に押しつぶされずにすんだよ
     うですけど。

一葉の辛労の生涯が明界(この世)だとすれば、“世間の常識を一銭五厘の玩具扱いにする”幽界(あの世)の夏子。幽明境にするも、強い強い樋口一葉を礼賛せざるを得ない。