死語化する?道義(正義)・道徳

“変化への対応”と“自己変革”。似て非なる表現だ。
変化する時代が人をつくり出すのだろうか。それとも、人が時代の変化を生み出すのだろうか。しばしば自問するものの正解が出ない。否、双方とも正解というべきか。
「私は獄中にいて当然殺されるほかないと考えたときも、いつも思いました。・・・『歴史においては、私は必ず勝利者になる』と。東西古今どこの歴史においても、国民の側に立った人、正義の側に立った人、歴史の進行と歩みをともにした人が敗北者になることは絶対になかった」
昨年他界した金大中韓国元大統領が岩波の『世界』83年9月号≪韓国現代史の問うもの≫のなかで語った一節だ。

金氏は≪行動する良心≫による≪道義政治の実現≫を一貫して説き続けた。そして、戦前も前後も、韓国民衆の願いを踏みにじってきた我が国に対し、「日本は尊敬される国になってほしい」と訴え続けた。
「今日の日本に於ける道徳の位置は最も危殆である。而も今の日本に於いて最も切要なるものは道徳である。道徳は現実に立って理想を仰ぎ、更にこの理想を現実化しようとする人間の行動である。人間は外の動物と違って意識的である。意識的であることはやがて意志的ということである。意志的とは与えられたる条件から全然独立することではなく、勿論この条件は制約せられるが、更にそれに反撥しそれを克服し、それ以外それ以上のものたらんとすることによって、新たな現実を作ることである。平たくいえば現下の日本がどうなるかというのではなく、それをどうするかが問題である。今の日本がどうあるかを見究め、これをどうにかせねばならぬ。この現実を立って理想を求め、それを現実化するという道徳的生活を外にして人間存在の意味はない」

こんにちの我が国現状の危機的状況を物語るような指摘だが、実は雑誌『世界』創刊号(1946年1月号)のなかの安倍能成氏による「剛毅と真実と智慧とを」の冒頭部だ。当時の幣原内閣の文相だった安倍氏、一高時代に岩波茂雄氏と親交を深め、岩波書店の最高顧問となり、『世界』の創刊にも携わった。

その後平和問題懇談会の代表となり、全面講和と中立主義を主張した同氏は、「剛毅と真実・・」を次のように結んでいる---
「・・今こそ真の意味に於ける文化国家、道義国家の建設が志されねぱならぬ。武力を有するものは武を瀆し、力を有する者は力に溺るるを免れない。武力なく権力乏しきものにも、文化を培い道義に立つことは許される。この道の外に日本の生きるべき道はない。而もこの道こそ、本当は国家の生きゆく栄光の道ではないか。真実を認識し、真実に堪え、智慧の光に導かれ、強く正しく、じっくり歩みゆく日本の前途に光明あれ」
これは安倍氏が敗戦後間もない45年11月に国民に訴えたものだ。

道義・道徳・文化などの言葉はnot concreteで空疎で非現実的、時代遅れか・・・。