動けば変わる--闇から光が射す

“議論は自由に”“研究室では平等に”
ノーベル物理学賞受賞者益川先生の至言である。
高等高校においても教師達の自由闊達な議論は歓迎すべきだろう。が、議論が評論・論評に終始し、他者批判の場だけに終わっていないか。長年現場に目を注いできたボクにとって最も気懸かりな特異な悪しき風土から抜けきれない学校が少なくない。現場教師は教育評論家ではすまされない。実践家でなければならない。実践にはリスクを伴う。リスクを覚悟の上で日々新たな実践に励む気鋭の教師にボクは感銘を受け、学ぶところも多い。
実践とは“動く”ことだ。教師自らが、闇の中にいることを知り、“知らないことが余りにも多いことを知ることだ”。

「宇宙の基本が闇であるように、私たちの暮らしの基本も、実は混沌たる闇にあります。私たちの暮らしの基本が光にあると思うのは錯覚で、私たちの知っていることは余りにも少なく、知らない闇におおわれていることは余りにも多い」---辰濃和男氏のいうこの謙虚さが求められるのではなかろうか。

教師が“Sense of Wonder”を持ち合わせることだ。“今まで知らなかったことを知る楽しみ”を体験することだ。“解らないことを自分で調べ、考え、解き明かす楽しみ”を実感することだ。そして自らの経験を踏まえ、“法則を見つけ出す楽しみ”を若者に伝授することだ。
この実体験が若者たちの≪知的渇望力≫を引き出す導火線になる。

孤独な中での≪自調自考≫体験も貴重だ。自分独りになる時間をつくり、活字と格闘して調べたり考えたりする。これこそ知的活動である、活字とのコミュニケーションだ。
動けば相手は変わる。言葉が力として作用し、体が心として動けば相手も動き、変わってゆく。