面白くない“お笑い”

落語は江戸モノ、漫才は上方に限る。ボクの昔からの見方、考え方である。これといった理由は無いが、落語も漫才も突き詰めれば話芸である。
が、話芸といっても両者間に根本的違いがある。落語は独り語りの味わいであり、漫才は掛け合いの妙にある。
空前のお笑いブームといわれるが、中身ははたして如何なものか・・? いつの頃からか、客層が変わったのか、客席の笑いが変質してしまった。むかし、池袋演芸場東宝演芸場に足を運び、また、大阪に行く機会があれば道頓堀の角座を覗き楽しんだものだが、当時は今のように客がやたらとバカ笑いなどしなかったものだ。

落語も大喜利の延長線上にあるものと錯覚している人が少なくない。大喜利でお馴染みの噺家でさえ、さて高座に上がって一席やるとなると何故か、類型化しちっとも面白くない“師匠”もいる。まず、イントロの≪枕≫がお粗末どころか、無芸。噺そのものもいつもの古典モノか新ネタに工夫が見られない。
後世に名を残す本物の名人は数えるしかない。常連客や落語通にとっては聴いていられない噺なのに、隣につられて笑わなきゃまずいと思って無理に笑っている素人客や若い女性が少ない。

落語以上に悲惨なのが漫才だ。江戸にもズバ抜けた異能の漫才コンビ、お笑いコンビがいるが、これは別格だ。上方はどうか。定評のあるベテラン組を除き、将来有望な若手コンビが現れない。上方じゃ2人寄れば漫才になるといいわれるが、昔日の感ありだ。突っ込みがボケを引っ叩く、またその逆ありだが、ネタ切れのうえ、しゃべくりの妙が無いのに、異様な格好とかおふざけだけで客から笑いを買おうとする。安易に悪乗りして爆笑する客。この相乗効果が話芸・寄席の質を大きく低下させている。
大阪の若手から中堅漫才師に注文したい。南座の顔見世興行『封印切』での片岡仁左衛門坂田藤十郎の掛け合いでも見習ったらどうか。上方の漫才のテンポに通じる芸だ。


クイズ番組やバラエティなどに顔を出すヒマがあったら、(エンタツアチャコまで遡ることはないが)、往時のダイマル・ラケット、蝶々・雄二、イトシ・コイシなどのしゃべくり、掛け合い、マのとり方などを学習してもらいたい。
さらにいえば、現在まともな漫才作家が存在しないのも痛いところだ。