それぞれの New Year

年が明けた。家族の一人が早起きして、初日の出を我が家の二階からカメラにおさめた。一片の雲も無き見事な旭日である。(下のphotoは違います。他からの借りモノです)

朝、外出した。心なしか異様に人出が少ない。“天気晴朗なれど風冷たし”というところか。手袋が要る。
お馴染みのNY、Times Squareの“初詣”、新年のカウントダウンの風景をTVが報じる。大晦日のNYの外は冷たい雨、不況とテロに対する厳重警備の中を数万人が熱狂している。例年より群集は多いようだ。
The NY Timesが“Celebrations in Times Square Despite Troubled Times”のヘッドラインのもと“Hundreds of thousands or revelers welcomed the new year in New York City's Times Square, despite the rain, slushy streets and heightened security, capping worldwide celebrations that often emphasized the hopes for a more peaceful tomorrow”
(雨と雪解け道、厳重な警備体制をものともせず、ニューヨーク、タイムズ・スクエアーは新年を待ちわびる数万人の群集でお祭り騒ぎだ。頭には世界に向けて祝意を表わす帽子をかぶり、より平和な明日への希望をアッピールしている)
メキシコからやって来た47歳のご婦人曰く「ここへ来れば多くの人が夢が抱くことができる」

NY市長M.R.Bloomberg氏が“Everybody always say that when you have a wedding and it rains, everybody's going to be happy and have good luck. This sort of guarantees that 2010 is going to be great year”(雨の日の結婚式は幸福と幸運を招くと誰もが言う。これが2010年が素晴らしい年になることを保証するものだ)と傘を差しながら語っている。
ブラジル青年は言う。“I think the weather is good. Not too cold. I'd rather it snow”(いい天気じゃないか。たいして寒くなんかないよ。むしろ雪になって欲しいね)
The NY Timesの眼に東京の初詣はどのように映ったか。“A quieter ceremony took place at Zojoji, a large Buddhist temple in Tokyo, where worshipers released clear, helium balloons into the night sky”

「東京、増上寺の大晦日の儀式は実に深閑としたものだ。集う信者は深夜の空に風船を飛ばしている」

元日も時代によって、また描く人によって彩りも様々だ。
永井荷風は日記『断腸亭日乗』の中に、敗戦の年となる1945年(昭和20年)1月1日のことを書き記している。
「正月元日。曇りて風なし。華氏43度なり。この日誌も今は数重なりて二十九巻とはなりぬ。感慨極まりなくかへつて筆にはしがたし。午後杵屋五そう来り夜具衣類を信州知人の家に送りたりと款話刻を移して昏暮に去る。この夜空襲なし」荷風散人年六十七とある。
終戦の翌年1946年元旦の日記--
「一月初一。晴れて風もなし。またはなき好き元旦なるべし。去年の暮町にて購ひ来りし暦を見る。久振りに旧暦の日を知り得たり。今日は十一月廿八日なるが如し。世の噂によれば会社の株配当金も去年六月以後は皆無となりし上今年は個人の私産にも二割以上の税かかるといふ。今日まで余の生計は、会社の配当金にて安全なりしが今年より売文にて糊口の道を求めねばならぬやうになれるなり。・・」

荷風は創作の場、偏奇館を45年3月9日の夜間空襲により焼失している。
45年の元旦は荷風にとってまたとなき好き日だったが、戦後、売文によって生計を立てなければならなくなったようだ。文学者が文学を捨てたとも云われ、老残の末、59年孤独死した。
戦時中の日記と云えば、山田風太郎の『戦中派不戦日記』も見逃せない。
風太郎は1945年の元旦を次のように記している。
「運命の年明く。日本の存亡この1年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ。
 昨夜十時、午前零時、黎明五時、三回にわたりてB29来襲。除夜の鐘は壮絶なる迎撃の砲音、清め火は炎々たる火の色なり。浅草蔵前付近に投弾ありし由。この一夜、焼けたる家千軒にちかしと」
まさに“皇国の興廃この一戦にあり”だ。
そして、敗戦の年の大晦日45年12月31日の「戦中派・・」日記は--
「大雪。雪降り降る。けぶる林の中に、雉子の声、山鳥の声、樫鳥の声、ひよどりの声。
 運命の年暮るる。
日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず」


風太郎さんの日記は、不戦日記と称しているがまる戦地に赴いた兵士が記した戦陣日記ののように感じられる。戦争に対する荷風の余裕綽綽たる態度、冷淡さとは好対照だ。この2人だが、どちらが終戦を希求し戦後に希望を抱いていたか。答えは簡単ではない。