子規の≪病牀譫語≫に学ぶ

正岡子規「飯待つ間」(岩波文庫)を拾い読みする。大変な食いしん坊だったという子規。その見事な食べっぷりが、同人の人生や文章に対する徹底振りに通じていることがわかりまことに興味深い随筆選である。
そのなかの≪病牀譫語≫に教育問題に触れた一文が見られる。

「我に二頃の田あらば、麦青く風暖かき処、退いて少年を教育するもまた面白からんと思ふ。教育には、知育、徳育、美育、気育、体育あり」として、こんにちほとんど耳にすることがない≪美育≫と≪気育≫なるものについて解説している。
◎美育は美的感情を発達せしむるなり。(美を造る技術即ち技育に非ず)人にし
 て美の心なければ一生を不愉快に送るべし。絵画彫刻の美を感ずる人は紅塵 十丈の裏にありても山林閑梄の楽を得べく、山水花鳥の美を感ずる人は貧苦 困頓の間にありても富貴栄華の楽を得べし。間接には美の心は慈悲性を起し 残酷性を斥く。
◎気育は意志を発達せしむるなり。義を見ては死を辞せざる、困苦に堪へ艱難
 に克ち、初志を貫きて屈せず撓まらざる、一時の私情を制して百歳の事業を 成就する、これら皆気育に属す。世人時にこれを徳育と混じいふ、しかれど も勇猛心忍耐心は善悪邪正の感とは異なり。

美育とは敢えて言えば“Sense of Wonder”を育てることに繋がる。
気育とは“剛健と耐性”の涵養だろう。いずれもこんにちの学校教育に欠けている点だ。
明治32年3月27日付『日本附録通報』のなかで子規先生が、徒然なるままに?説いた教育観。いま改めて学ぶべき古典・故事である。