発句--“はじめに子規あり”か・・
昭和の俳壇に大きな影響を与えた石田波郷、「自分の一生は病んでばかりいる一生だった」と述懐。
今生は病む生なりき鳥頭(とりかぶと)
時世の句か、清瀬の結核病院で生涯を終えている。
70年代わが街に住んでいた時代小説の名手、藤沢周平さんは50年代結核を患い、東村山の病院に入院中、俳句同人誌「のびどめ」に六十七句寄稿している。周平さんも97年慢性肝炎のため清瀬の病院で他界した。
野火止は我が家の近くを流れる小川である。
肌痩せて死火山立てり暮れの秋
死火山の朱の山肌冬日照る
結核病棟で死と背中合わせにいた頃の句である。
さらに、芥川龍之介にも数々の発句・俳句がある。
黒き熟るる実に露霜やだまり鳥
芥川はこの句を「この間虚子の御褒めに預かったから御らんに入れます」と小島政二郎宛ての手紙に書き入れている。
かくして、この頃ボクもこれら俳人や文人の作品のなかに散見される発句・俳句をかじる機会が増えたこともあり、近代俳句の源流を辿るのも一興だと考えた次第である。
さて、芥川の上の発句を褒めたという高濱虚子や加東碧梧桐などの編纂による古書『子規全集』(第14巻)が廉価で手に入った。1930年(昭和五年)の改造社発行の初版本だ。
その中に、俳人萩原井泉水による地方から訪ねてきた俳句に親しんでいる青年との「子規問答」が挿入されている。
萩原:「子規のものはご覧になりました?」
青年:「いま、子規全集をぼつぼつ見直しています」
萩原:「どうお感じでした?」
青年:「子規のものは、兎も角、解ります。俳句への一番最初の手引きをし
て貰ったのは子規の物でした。子規を読んでから、蕪村を好く読まう と思ひましたし、芭蕉も子規の見方を通して、見直しました。
・・・子規の『芭蕉論』などは、ずゐぶん辛辣なものですね」
萩原:「芭蕉といふと、古来、まつたく偶像視されてゐたので、芭蕉の註釈
は山程にあつても、芭蕉の批評といふものは1つもなかつたのです。
その芭蕉を俎上に載せて再吟味をしたのは子規がはじめだつたといつ ていいでせう」
青年:「芭蕉の没後もさうだつたらしいのですが、子規の没後、俳壇が四分
五裂したという風ではありませんか」
萩原:「・・・子規の俳句そのものが、第一歩的なもので、第一歩としての
正しさにあるものですから、それから進めば道が岐れる事はきまつて ゐます。
然し、子規が人格としての大きさを持つてゐた事は本当です。あれだ
けの難病に苦しみながら、自分の仕事といふものの為に闘つてゐた。 あの意志、あの信念、あの精進は何としても偉いものです。その点か らは、『病牀六尺』『墨汁一滴』『仰臥漫録』などは、人間としての 実に貴い記録です」
『子規全集』の編集諸子が述べている---
「・・子規居士が単なる句作者、歌よみではなく又研究心の旺んな学者的の
人であつた一面を伝えようとするため・・。若し天が居士に藉すに齢を以 てしたら、居士の事業は何処迄発展したか想像だも及ばないのである」
虚子と芥川はともに30代半ばで世を去った。若し両氏に天がさらに齢を付与していたらと仮想したくもなる。