“(嘘の)自白”に導く≪魔の時間≫とは

足利事件に続き、最高裁で再審が確定した事件が明るみに出た。検察側の特別抗告を棄却した「布川事件」。
栃木県に続いて、今度は茨城県利根町で起きた42年前の事件だ。なぜか北関東の地検・地裁がスタート地点になっている。
78年に無期懲役が確定し96年仮釈放された2人の元被告が2001年に第二次再審請求。水戸地裁土浦支部が2005年9月に再審開始を認め、東京高裁も2008年7月再審開始を決定していたケースである。
高裁決定は、「2人の自白の信用性は重大な疑問があり、有罪とした確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じた」いう判断によるものである。
なぜ嘘の自白をするのか?

青地曟氏は著書【魔の時間-六つの冤罪事件-】のなかで「拷問の体験のない人びとは、自白についてある種の既成概念をもっている」として、次のように述べている-----。
「『やってもいないことを、なぜ白状するのか。どんなに責められても、真実を守り抜くのが当然だ』『犯罪を犯していないのに、どうして犯罪現場の状況を詳しく述べることができたのか。犯人以外に知るはずもない状況が述べられ、現場の見取図まで書いているではないか』『裁判は真実の発見だと言われている。もし拷問による虚偽の自白なら、厳正公平な裁判の過程で、必ず嘘の自白は尻尾を出し、被告の無実は判明するにちがいない。憲法刑事訴訟法は、人権擁護においてはほぼ完璧ではないか』
これらの言葉は、それぞれもっともだと私も考える。決して間違っているとは思わない。一般の人びとが、このように考えるのは当然で、これは法治国におけるまっとうな考え方であり、健康な感覚だと私は思う。ただし、これらの言葉が正当であるためには、警察や検察の取調べが憲法刑事訴訟法の精神にのっとって正しく行われること、また裁判官が高い人権思想に貫かれている場合に限られるであろう。
もし取調べが拷問、強制、誘導などの不法な手段で強行され、裁判官が被告の訴えに耳をかさぬ場合には、このような考え方は根底から崩れざるをえない」

次の三つの冤罪事件をめぐる青地さんの言葉は実に重い。
≪松山事件≫
「嘘の自白と云う問題は、権力がつくる『魔の時間』を考慮にいれなければ、とうてい考えられない。そして有能な係官ほど、カリスマ的魔力を発揮し、『魔の時間』をやすやすとつくりあげる」
≪梅田事件≫
「日本の検察庁は、被告に有利な証拠を公開しないという、まことにフェアーでない習性---伝統的な慣行をもっている。公正な裁判をやり、真実を発見するのが、『公益の代表』の役目ではないのか」
名張毒ぶとう酒事件≫
「私たち日本人は、いまも官尊民卑の風習が残っている。まして地方の農村の中年以上の年齢層では、こうした風習がいっそう強い。ことに強制捜査権をもつ検察官は、鬼よりこわい存在なのである」

再審への道を閉ざされたまま刑場に送られた被告人もあろう。白日に晒されることなく埋もれ、忘れられていった“冤罪事件”。問答無用なのか・・?