今年の漢字一文字、“駄”は忌み字で≪駄目≫か?

今年を表わす漢字一文字は「新」が選ばれたとか・・。
今年も昨年と同じく“変”でもいいと思うが、一昨年の“偽”ほどではないが忌み字を避ける傾向にある気がする。
ボクにとっては今年の日常生活は“凡”とか“駄”などが適当なところだが、世間さま、世の中、世情となるとそうもゆくまい。
愛読書の1つに辰濃和男さんの「私の好きな悪字」(岩波現代文庫)があるが、そのなかの一つに≪駄≫が含まれている。
「現代は『駄』を消しつつある時代です」と辰濃氏。
『駄』の付く言葉は“品がない、下らない”かといえば、そうでもない。“駄じゃれ”や“駄弁”は別として、≪駄菓子屋≫≪下駄≫≪無駄≫はいかがだろう。昔、一時期、翻訳業をやっていたころ“pop-and-mom candy store”なる現代米語に出くわした。これぞ“駄菓子屋”さんがドンピシャ。


米国もそうだろうが、大型ショッピングストアの進出により年々街から姿を消してゆく平屋の暖簾、ラムネ、サイダー、ベーゴマ、メンコ、グリコのキャラメルなど懐かしさで一杯だ。

≪下駄≫と云えば、樋口一葉の「たけくらべ」のなかでが大切な役割を果たしている。信如が下駄の鼻緒を切るくだりがあって初めて、美登利の片思いの描写が生きている。五所平之助監督の「たけくらべ」(1955年:新東宝)で美登利を演じたの美空ひばりの粋な曲の1つに≪日和下駄≫(作詞・作曲:米山正男)があるのも面白い。

「日和下駄」といえば永井荷風の名作が思い浮かぶ。下駄のつく言葉を拾ってゆくと、昔の多彩な下駄文化の姿がわかる。
句の世界にも下駄が登場する。
 春雨やゆるい下駄かす奈良の宿    蕪村
 下駄からり、からり夜氷のやつら哉  一茶 
 行春やゆるむ鼻緒の日和下駄     荷風
因みに、旧制高等学校の生徒たちの普段の履物が日和下駄だった。

さて、≪無駄≫についてはいかに・・?
辰濃和男氏が問いかけている---
「お前は無駄礼賛派なのか、効率派なのか、一体どっちなんだと思うことがあります。・・・必要なのは、ひとりひとりが、無駄をはぶく考えと、無駄を大切にする考え方の二つをいかに両立させるかということでしょう。無駄をはぶく考え方には硬さ、厳しさがある。無駄を大切にする考え方には柔らかさ、おおらかさがある。その二つをいかに両立させるか。
 世の中のことでも同じです。無駄をはぶく風潮が主流であるならば、せめて、無駄を大切にする少数派があってもいい。無駄を大切にしたほうが、かえって無駄をはぶくことに役立つことがあるかもしれない。そういう心理的、生理的考察があってもいい。それに、すべての人が『無駄撲滅』の意気に燃えて、こころを1つにして走っている社会は恐ろしい。あべこべの考え方を容認する気風があったほうが懐の深い世の中になるし、暮らしやすいとは思いませんか」
 ボクは大いに賛成だ。仕事のない非番の日(day off)には、“生理的考察”などしなくても、自然と惰眠を貪るのが常態だ。“駄眠”だといわれるかねしれないが長閑に楽しんでいる。明日に繋がる休息になっていい。