“濁った暗い半生(青春)”が培ったもの

松本清張生誕100年を記念してかつてドラマ化された社会派推理モノの名作をBS2が再映、清張の世界を回想している。

「自分のことは滅多に小説に書いていない」という清張だが、55才を越えたころから「自分がこれまで歩んできたあとをふり返ってみたい気もないではない」と出版社から求められ、『半生の記』や『私のものの見方考え方』などを記している。
「私の学歴は小学校卒である」「私は貧乏の中に育ったが、家は赤貧洗うが如しというほどではない。両親は小さな飴屋をしていたが、のちに飲食店を営んだ。しかし、上級の学校に進学させてくれる余裕はなかった。こういう家庭は案外多いのではないかと思う。他所目にはさして貧しくはないが、さりとて豊かでもないという経済状態である。それに父の不運も手伝って商売はうまくゆかない。私は小さい時から父が借金の言い訳をしたり、家を外したりすることを始終見ていた」
清張の少年期と時代は異なるが、こんにちのworking poorや経済困窮家庭に通じるものがあろう。
清張は処世訓めいた人生論的叙述に批判的である(尾崎秀樹氏)
とはいえ、≪学歴の克服≫と題して清張自身次のように語っている---
「・・私のところには毎年、各新聞社から年鑑に収録する資料としてカードが送ってくるが、それには必ず卒業学校名という欄がある。私がそれに『小学校卒』と書くと、子供はのぞきこんで暗い顔をする。私も『大学卒』と書いた方が体裁もいいし、ハッタリも利きそうだが仕方がない。この時、私は子供たちに云うのである。『人生は卒業学校に依らない。会社はそうかもしれないが、人生に卒業学校欄というものはないのだよ』
こんな教訓めいた文章を書くのは私は嫌いである。それに私はまだ劣等感から脱し得ていないし、本誌もそれを知っているからこんな一文を依頼に来たのであろう。学歴のない底辺の人たちは、もっともっと沢山の場所で学歴のない差別劣等感を味わっていることだろう。けれども、その劣等感は、いわれのない特殊差別待遇から来ているのものであり、人格や実力にはいささかも関係のないことである。その下らない意識に自ら萎縮させることは、己れが敗北者になる道である。負けてはならない」

「父の峯太郎は八十九で死んだ。母のタニは七十六で死んだ。私は一人息子として生まれ、この両親に自分の生涯の大半を束縛された。
もし、私に兄弟があったら私はもっと自由にできたであろう。家が貧乏でなかったら、自分の好きな道を歩けたろう。しかし、少年時代に親の溺愛から、十六歳ころからは家計の補助に、三十歳近くからは家庭と両親の世話で身動きできなかった----私に面白い青春があるわけではなかった。濁った暗い半生であった」
しかるに、「私の物の見方考え方」の解説のなかで尾崎秀樹氏は次のように評している。「・・おもしろい青春とはなんだろう。夢いっぱいな日々、奔放な行動をあげる人がいるかもしれない。そういった浮薄な生きかたから得られるものは意外に乏しい。青春は無償のものだというが、それにしても浮薄な日常から何もうまれない。松本清張の青春は『濁った暗い半生』だったかもしれないが、しかしそこで培われたものは尊かった」
清張は「母は気の強い人だった。どんな時でも他人に負けるということはなかった」という。そして、「性格が楽天的で呑気坊主で、何をやってもうまくいかなかった」父親について、「しかし、父は新聞を読むのが好きだった。どんなに貧乏していても、新聞だけは必ず二紙配達させていた・・父は私が十三、四のときに新聞を読むなら第一ばんに政治面から読め、新聞を手にとって三面を開くようでは人にばかにされる、と云ったことがある」と父親の影響を示唆している。

清張は十五歳から三年間川北電機に就職し、給仕として働いた。その頃から小説を耽読しているが、「殊に芥川龍之介のものは真先に読んだ。当時、芥川は短編集をつづけて出していた。その短編集『春服』『湖南の扇』など、銀行などに使いに行って椅子に腰かけて待つ間のひまに、貪るように読んだ。なるべく長く待たされるのを望んだ」という。
芥川の自死の報に清張は接している。

芥川龍之介の自殺があった。社会面のトップに『文壇の雄』という大きな活字がついていた。階下の奥さんは、わざわざその新聞を持って上がってきて私に見せた。私は文藝春秋社の広告を見て金を送り、龍之介の写真を取り寄せた。その裏に撮影者南部修太郎の墨字の署名があった」(新潮文庫≪半生の記≫より)
最近、新聞を一紙も取っていない家庭が少なくない。驚きどころか大変心配だ。家庭の貧しさばかりが原因ではないようだ。