季題・季語のない発句もいいが・・

いまなお賛否両論ある司馬史観だが、NHKで始まった「坂の上の雲」はかなりの視聴率を上げると思われる。
主人公の一人正岡子規をいかに描くかだ。子規といえば俳句だが、病床での最期の3句がなとんも言えない。
 糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな
 痰一斗糸瓜の水も間にあはず
 をととひのへちまの水も取りざりき

明治35年(1902年)9月18日の朝10時頃、唐紙を張った画板に、門人から筆を取りこの三句を書き、その夜もふけた19日に静かに息を引き取ったという。
子規というペンネーム(雅号?)自体が驚きだ。子規はホトトギスの異称で、結核を患い、喀血した自分を、血を吐くまで鳴き続けると言うホトトギスにたとえて付けた名だ。最期の三句にも表れているとおり、その聡明さは子規の類稀なる人生に対する客観視と強い意志とユーモアを醸成した。
子規と年来の親友であり、子規が亡くなるまで友情を保ったのは誰もが知る夏目漱石である。漱石が明治のべスセラー作家となったのは、子規亡きあと子規から虚子へと受け継がれた俳誌『ホトトギス』に小説『我輩は猫である』を発表したのがきっかけだった。が、両人の親交はかかる恩義や貸し借り関係で維持されたものではない。共に松山の生まれ、生まれた年も同じだったということもあるが、子規没後の漱石の語りが面白い。
「(正岡は)非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などしなかった。僕だけどういうものか交際した。1つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無闇に自分を立てようとしたらとても円滑な交際などできる男ではなかった。例えば発句など作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。・・」といった具合である。
両名の交友は明治22年(18891年)1月、寄席通いから始まったという。子規から漱石への最後の手紙は亡くなる前年、明治34年(1901年)12月18日付けのものである「僕モモーダメニナッテシマッタ。毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ。・・」

この子規について芥川龍之介が記している。
「・・夏目先生の話に子規は先生の俳句や漢詩にいつも批評を加えへたさうです。先生は勿論子規の自負心を多少業腹に思つたでせう。或時英文を作つて見せると---子規はどうしたと思ひますか。恬然とその上にかう書いたさうです。---ヴェリイ・グード!」
子規に盛んに勧められ、漱石先生も俳句を書いた。俳句といえば、芥川に≪発句私見≫なるものがある。その中で芥川は「発句は必ずしも季題を要しない。今日季題と呼ばれるものは、玉葱、天の川、クリスマス、薔薇、蛙、ブランコ、汗、----いろいろなものを含んでゐる。従って季題のない発句を作ることは事実上反って容易ではない。しかし、容易ではないにもせよ、森羅万象を季題としない限り、季題のない発句も出来る筈である」
三中から一高に進むころの大正13年、芥川は≪秋の歌≫のなかで次のような短歌を詠んでいる。
  わくら葉の黄より焦茶にうつりゆくうらさびしさにたへぬ心か
次は冬の句だろう。
  木からしや目刺にのこる海の色
木枯しと目刺の取り合わせを面白がっているようで、ある種のモダニズムが感じられる。

子規と漱石の交友の始まりの場となった寄席通いといえば、柳家小三治などが創立メンバーとなりスタートした『東京やなぎ会』が今年で40年を迎える。


小三治師匠の発句を二句---
 「銭湯を出て肩車冬の月」 --- 年の瀬の句である。
 「初髪の尻階段をのぼりゆく」  ---- お正月の句である。
初髪とは、新年はじめて結い上げられた髪のこと。主として島田など日本髪をいう。
季題のない発句を見つけるのは難しい。