懐旧と追憶(その2)

急ぎ足で逝ってしまった知友、忽然として早世した教え子がいる。思い出は、懐旧というより追憶というべきだ。寂寞として無念だ。

追憶といえば、恒藤恭の“友人芥川の追憶”をあらためて読みしんみりさせられる。

「数えて見ると、芥川との交はりは十八年の過去からつづいた。芥川は三十六歳でなくなつたのだから、私達の交はりは丁度芥川の一生の後半にわたつて居た訳である。
この永い年月のあひだ、彼は恒に私の最も親しい且つ最も敬愛する友人の一人であつた。性格や気質においては二人はいろいろ異なる所があつた。思想の上でも一致しない点が数々あつた。しかしながら不思議とお互ひに親しみを感じた。この心持は少しも渝ることなく十八年のあひだ持続した。
この間、高等学校時代の彼、大学時代の彼、機関学校の先生をして居た頃の彼、専ら文筆に依つて衣食するやうになつた彼、と云ったやうに---彼の生活の境涯の変つて行くのを、近くから又遠くから私は眺めた。そして終りに彼の遺骸の荼毘に付されるのを見守らねばならなかつた。
お互ひに死といふものについて話したことは時折りあつた。お互ひに健康について絶えずいたはり合つた。
何時のことであつたか、田端の家で、私の用ひてゐた白耳義製のカフスボタンをしきりにほめて、『君が死んだら形見にくれたまへ』と云ふから、『やるよ』と約束したことがあつた。欧羅巴へ向けて出発する前のこと、ひよつとしたら先方で何かの加減で死なぬとも限らぬと思つたら、その釦を芥川に贈つて
置かうとも考へたが、少し感傷的に過ぎるやうな気がして差控へた。アメリカの暑熱で大分胃腸を痛めたものの、兎に角、昨年の九月の半ばすぎに私は横浜に上陸することが出来た。そして鵜沼の居に芥川をおとずれ、久しぶりに話し合つた。それが永久の別れであつた。
鵜沼の駅に向かふ車の中で、ふと、此れきりでもう会へないのぢやないかしら、と云ふやうな予感があたまの中に閃いた。瞬間ひじやうにさびしい気がした。が私は直きに、そんなことはないと理性によつて打消した。けれども、やつぱり其予感が事実となつてしまつた。ほんたうに残念である」

肝胆相照らす仲の法律家と文人である。
淡々と語るremembrance(追憶)が一層の淋しさを誘う。