懐旧と旧友なるもの(その1)

ボクの大学時代の恩師Y先生だが鬼籍に入られてもう20年余になる。
眼差は優しかったが、学問の姿勢については厳格だった。正鵠と創造・想像を旨とされ、安易な模倣は許されなかった。明治生まれの気骨があり風雅で偉大な英文学者であり詩人でもあった。大卒後、世田谷のご自宅へ友人とお邪魔したことがある。辞去するときに、粗忽者のボクは大切なビジネス手帳を先生の家に置き忘れたところ、流麗な筆書きで赤坂の会社に郵送されてきた。
当時外国映画吹き替え脚本翻訳業の駆け出しだったボクに先生は「君に合ってるかも知れないね」とポツン言われた言葉が今も耳に残っている。
その後、高校教員を志願、先生に推薦状を依頼に伺ったところ、当時大学学長だった先生は「私の今の立場から考えて、私が書くより英文科主任のY先生にお願いした方がいいと思うよ」
ツレナイご返事というより、世間知らずのボクに条理に叶った道筋を常に示す先生の示唆、今もって尤もだと感服する。
Y先生は旧三高時代、恩師が上田敏博士。芥川龍之介の存在をもご存知だった。
大学の講義のなかで芥川に触れられることもあった。
その芥川にとって真の友と云えば、恒藤恭だろう。

恒藤恭は法学博士だ。滝川事件で京都帝大法学部の教官を辞任した一人だ。
芥川と恒藤、畑違いの2人の結びつきは強く、深かった。
芥川龍之介は私の最も親しい友人の1人であった」と恒藤。
芥川が「恒藤恭氏」と題して語っている。
『恒藤恭は一高時代の親友なり。寄宿舎も同じ中寮の三番室に1年の間居りし事あり。当時の恒藤もまだ法科にはいらず。一部の乙組即ち英文科の生徒なりき。・・。
恒藤は又秀才なりき。・・恒藤は又論客なりき。・・・恒藤は又謹厳の士なり。酒色を好まず、出たらめを云わず、身を処するに清白なる事、僕などとは雲泥の差なり。・・・』

芥川は自分のことを≪私≫と呼ばず≪僕≫と称する。
ボクも人前で自分の事を≪ボク≫と称することが多い。何も芥川を真似たワケではないが、時おり“わたくし”と称することがあるが、心なしか、気取った風に自分では聞こえる。(翌日に続く)