話芸は“まくら“--笑いの格が違う

昨日、ETVで「日本の話芸選」を視聴する。
円歌の「中沢家の人々」、歌丸の「小言幸兵衛」。お馴染みの十八番の噺にお客の哄笑・爆笑が湧くが、定型で笑いを誘わんかなの流暢な語りには本物の可笑し味はない。話芸にほど遠い。

落語には“まくら”が不可欠だ。
小三治はまず、“まくら”で客をくすぐり、「馬の田楽」を演った。方言を駆使してストーリーが冴える。田舎の情景が見事にイメージ化される。玄人うけの噺だ。観客の笑いの質が違う。
小三治の名著?『ま・く・ら』(講談社文庫)を再読する。
小三治の師匠、小さんが園遊会に招かれ、天皇からご下問があったという。
宮内庁の人が天皇に小さんを紹介した。
「この方は落語の小さん師匠でございます」
「ン。このごろは、落語のほうは、どうなの?」
2・26事件の生き残り、当時天皇に楯突いた、つまり反乱軍側にいたという小さん師匠、このご下問に頭に血が上ったのか、「落語のほうはどうなの?」と訊かれた途端、「ええ、近ごろだいぶいいようで」と答えた。
小三治曰く。“病人だよ、それじゃあ゜(笑)

『ま・く・ら』のなかに≪口上≫が収められている。
柳家九治改め七代目柳亭燕路真打披露昇進披露口上である。小三治一門の弟子が、半冶の司会のもと、次々と口上を述べる。福治、喜多八ときて、一番弟子の〆冶。そして最後は師匠の小三治が締める。そのなかで、自身が小さんから小三治の名を命名された経緯を告白する。

「えー、あたくしは師匠の小さんから、何の相談もなくいきなり『おまえは小三治だ』って言われて、師匠が付けていた大事な名前をあたくしに、言ってみれば追っ付けられたわけですから、それを断るだけの勇気があたくしにはありませんでした。『あたくしにはそれだけの自信がございません、もっと好き勝手な名前を付けさせてもらいたい』と言いたかったところが、なかなかそれがうまくいかず、師匠の遺志・・・・じゃないな(笑)、あ、イシっていうのは“意志”つまり心ですよ、心ね、心。あー、びっくりした。つまりそれをいただくにはそれが1番いいと。またそういう世界ですから、あったんでございますが、でも九冶改め七代目燕路の場合には、その点これからとても、自分の好きなように、伸び伸びと活躍できるわけでございます」
小三治の語り口。他愛なさの奥に潜む心持がなんともいい。