At 11:58 am, September 01, 1923の感想いろいろ

86年前の今日、午前11時58分、相模湾震源とする激震が帝都を襲った。マグニチュード7.9、死者・行方不明者約14万人に及ぶ我が国史上未曾有の惨劇である。

関東大震災」の体験談や記録、そして感想を拾ってみた。
内村鑑三は軽井沢にいた。その日は雨、土曜日だった。

「正午少し前に強震を感じた。浅間山噴火の前兆にあらずやと思うて驚いたしかるに少しもその様子なく、あるいは東京方面の激震にあらずやと思い、心配した。夜半に至り、予想どおりなることを知らされて驚いた。東南の空はるかに火災の揚がるを見た。東京に在る妻子、家族の身の上を思い、心配に堪えなかった。夜中、幾たびとなく祈った。そして祈った後に大いなる平安を感じ、黎明まで安眠した」とある。キリスト教思想家、無教会主義者の驚きと心配、そして“祈り”の語録である。
荷風は『断腸亭日乗』に9月1日の体験を記している。

「・・・日まさに午ならんむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に坐し『嚶鳴館遺草』を読みぬたりしが、架上の書帙頭上に落来るに驚き、立って窗を開く。門外塵烟濛々、殆咫尺を弁ぜず。児女鶏犬の声頻りなり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるがためなり。予もまた徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまま表の戸を排いて庭に出たり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。・・・物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。・・」
市中の火を観望した荷風、「予の家に露宿する」と記している点から見れば、ご本人の棲家は焼失を免れたようだ。
芥川龍之介はどうだったか。田端の高台にあって新築十年も経っていなかった芥川邸は、地震の被害は少なかった。それだけに、芥川は大震災をしっかり見つめ、書き留めようとした。

芥川は言う。「この大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能はず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ」「嘆きたりと雖も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり」と、嘆いてもよいが絶望してはいけないと記している。
芥川は傍観者でなく、その健全な精神と先見性に注目すべきだろう。