我が国主要紙の変わり身の早さに唖然

敗戦(終戦)記念日が近づく。日本軍の正式なSurrender Day(降伏の日)は9月1日だが、我々は通例1945年8月15日を終戦日として受け止めている。正午に玉音放送があり、それまで軍国日本をリードしてきた主要紙が、15日を境に鮮やかに論調を変えていったからだ。“君子豹変する”ではなく、“小人革面する”でもない。何と表現すべきか。

日本の敗色濃い、サイパン玉砕の日について書かれた米TIME誌の記事が日本語に訳され、主な邦紙に掲載された。記事は凄惨極まりないもので、いわゆるBanzai Criffからの子女たちの飛び降り自殺の惨状を報じている。


が、邦紙の記事内容はどうだったか。自殺した女性やその子供たちに対し新聞が惜しみなく与えている称賛の言葉に唖然とさせられる。清沢洌は『暗黒日記』のなかで指摘する。
読売報知の記事は「日本婦人の誇りや、昭和の大葉子』(某歌人の言葉)と死んだ母親を称え、東京帝大の平泉澄教授は『百、千倍の勇気湧く。光芒燦たり、史上に絶無』と発言したという。

清沢は結論づける。「日本が、どうぞして健全に進歩するように−−それが心から切望される。この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うのであることをこの国民が覚るように−−−。『敵討ち思想』が、国民の再起の動力になるようではこの国民の見込みはない」
終戦の日から1週間経った、8月21日、作家高見順は、軍に対する民衆の反感が早くも出ていることを報じる毎日新聞の記事に触れている。軍部は罹災者の苦しみに無関心である、と人々は感じ始めていたのがわかる。
9月1日、山田風太郎は「戦中派不戦日記」に書いている。
「新聞がそろそろ軍閥を叩きはじめた。『公然たる闇の巨魁』といい、『権力を以って専制を行い、軍刀を以って言論を窒息せしめた』といい『陛下を盾として神がかり信念を強要した』という。そして−−−−『我々言論人はこの威圧に盲従していたことを恥じる。過去の十年は、日本言論史上未曾有の恥辱時代であった』などとぬけぬけと言う」

主要紙のお粗末さだけを責められない。戦前〜開戦前夜から戦中、戦後を通じて一貫して戦争反対の立場を貫いた政治家や言論人、作家など知識人が果たして何人いただろうか。清沢洌に言わせれば著名人といえば石橋湛山馬場恒吾の二人しか考えられないという。
もっとも開戦時、相次ぐ勝利の報に国中が沸く異様な興奮のなかで、最も冷ややかで動じなかったのは永井荷風だろう。
真珠湾攻撃の四日後に荷風は書いている。
「12月12日。開戦布告と共に街上電車飲食店其他到るところに掲示せらりしポスタを見るに『屠れ英米我等の敵だ。進め一億火の玉だ』とあり。現代の人の作文に何だの彼だのと駄の字をつけて調子を取る癖あり。駄句駄字と謂ふべし」(永井荷風日記より)
以上の多くはドナルド・キーン氏の近著『日本人の戦争』から引用したものだが、衆院選挙をまえに日本の政治状況を冷徹に見すえる必要があろう。特に気になるのがメディアと世論調査なるものだ。オポチュニストとポピュリズムはえてしてボクたち市井人の明日をミスリードするからだ。