亡母のしつけ、息子に贈る“心ばえ”

8月を迎えた。盂蘭盆が近づくと我が家の窓外からも蝉しぐれが聞こえる。が、相変わらず天候不順だ。中国・四国地方がやっと梅雨明けだというから驚く。関東では早々と梅雨明けしているはずなのに、今日も曇り空、一雨ありそうだ。かといって冷夏という感じはしない。からっと晴れたときの暑さのなかで外出すると堪らない。そんな気候定まらぬ今夏かもしれない。
ともあれ、お盆が近づくと鬼籍に入っている両親に想いを馳せるものだ。母が急逝して早や37年になる。53歳で脳溢血で倒れ、あっという間に逝ってしまった。初孫の2歳の長女を膝に乗せ、微笑む写真が最期の姿だ。11月も半ばを過ぎた霙降る日の葬送。言葉なく涙に暮れるばかりだった。
母は42歳のとき、町内の温泉旅行の宿で倒れ、絶対安静のままその宿に10日余り逗留せざるを得ないほどの病状だった。その後、右半身不自由なまま余生を過ごすことになる。
だからボクや還暦を過ぎた弟妹もそうだが、ボクの家内も母の老いた姿は知らない。我が祖父は没落してゆく商家を抱え、行商に出ていた。母は一人娘だった。祖父から読み書きそろばんはもとより人との付き合い方について徹底的にしつけられていたようだ。母の遺した言葉はあまり覚えていない。でも、達筆を超えて秀逸な文字は誰もが認めるところだった。病後も痺れる右手で書き残した文が数多くボクの手元に残っている。
母からボクは「勉強しなさい」という言葉を聞いたことがない。当然勉強しているものだと思っていたようで、「早く寝なさい」が口癖だった。今風で言えば教育ママだったようだが、躾けにはうるさかった。戦後差別されていた朝鮮人なども含め、弱者に対しての暖かさは終始変わらなかった。そのため、分け隔てなく人とのつき合いは広く、多くの人から敬愛される存在だった。
中高生のときなど、家の玄関に来客があれば必ず一緒に上がりがまちのところまで出て、挨拶するように言いつけられていた。
奥に引っ込んでいようものなら、お客が帰ったあとヒドく叱られ、お尻をつねられるのが常だった。家業や家事を手伝えとは言わなかった代わりに“いろんな人たちに出会い付き合うよう”に自然と躾けられていた気がする。他人との出逢いには挨拶がつきものである。

挨拶といえば、このところ初対面の方々とお会いしてご挨拶する機会が多いが、知らず知らず粗雑でぞんざいになってはいないか気になる。
明治の文豪露伴を父に持つ幸田文女史はその父から家事・作法など徹底的に薫陶を受けたことで知られている。近著『幸田文 しつけ帖』のなかに次のような一節がある。
「挨拶とは、ことばでありマナーである。だが、その源は心ばえである。心がからっぽじゃ、ことばも、ことばに添えるマナーもない。だから、挨拶が入り用なときは、その事柄へ心こまやかにするのが先決で、自然にことばは心にひっぱられて出てくる、とわたくしは思う」