古書店で出逢った小林秀雄「感想」についての感想

昨日、土曜日午後、久々に本郷の馴染みの古書店に出向く。
客は数人いたが、たいがい手に取り買うのは古い新書本である。

ボクが購入したのは三冊。一つは『フィレンツェ−−芸術都市の誕生』。2004年と2005年東京都美術館京都市美術館で、同名の特別展が行われたときのガイドブックだろうが、270頁以上に及ぶ豪華本である。オリジナルタイトルは≪Firenze--Alle origini dello 'stile fiorentino' ≫。1800円、廉価というべし。
二冊目は幸田文の自伝的長編小説『きもの』。93年(平成5年)の初版第十冊もの(新潮社)で700円。タイトルバックの挿画に著者の遺愛品が使われいて気品がある。
もう一冊目に留まったのが小林秀雄の「感想」(新潮社)である。79年(昭和54年)初版本の三冊モノ。これも700円。
83年に81歳で没した小林だが、近代批評の確立者として評され、戦時中、戦争プロパガンダに加担し、戦後、くリベラル派評論家などからとかく批判されてはいるが、“西田幾多郎と並んで戦前の日本の知性を代表する巨人”と評価され、同氏の変節的な政治思想は不問に付されている感じがする。
この「感想」のなかに≪オリンピックのテレビ≫という一節がある。64年秋の東京五輪をめぐる氏の感想である。
『何か感想をかかねばならなぬという約束で、原稿紙はひろげたものの、毎日、オリンピックのテレビばかり見てゐて、何もしないのである。こんなに熱心に、テレビを見た事は、はじめてだ。オリンピックに、特に関心があつたわけでなかつたので、これは、自分でも意外な事であつた。オリンピックと聞いて嫌な顔をして、いろいろ悪口を言ってゐた人も、始まってみれば、案外、テレビの前を離れなれないでゐるかも知れない。
競技の途中で、中共の核実験のニュースが這入る。おやおや、そうかい、と私は思ふ。テレビを前にして、重大なニュースが這入ったなどと余計な事を考へる要も認めない。(中略)
勝負する選手達は、みな孤独かも知れないが、その彼等の内心の孤独が、私には、外部からさまざまと見えてをり、その魅力に抗し難いとは不思議な事である。孤独とか、自分との闘ひだとか、そんな文学的常套語を使ふより、選手達の口のなかはカラカラだ、と言ふ方がいいかも知れないのである』

小林秀雄62歳のときの“感想”である。64年の日本初の五輪、ボクの23歳のときである。都内に限らず、日本全体に高揚感が漂っていた。
今はどうか。2016年の招聘を目ざしている再度の東京五輪。ボクもそうだが関心は余り無い。冷ややかな反応を示す人も少なくない。が、もし招聘が成功すればデジタルTVに釘付けになる知識人も少なくなかろう。五輪とはそのようなものである。