「河童忌」82回目を迎えて・・

今日7月24日は「河童忌」。1927年35歳で自死した芥川龍之介の命日、晩年の作品「河童」に因んで呼称されて早や82年になる。

芥川は自伝的作品のなかで、自身のことを必ず“僕”と呼ぶ。
彼は、『ただぼんやりした人生への不安』から晩年、自死を考え、その方法を思考している。
『最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角自信に達した』(「或る旧友に送る手紙」より)
或る旧友といべきか親友というべきか、ボクには解らないが、芥川の友人の1人に作家宇野浩二がいる。この宇野だが、芥川の服毒自殺の前年に精神病を患った。つまり発狂したのである。が、精神科医でもあった斎藤茂吉などの力により快癒したのか、長生きし70歳で他界している、。
この宇野浩二が「芥川龍之介」という“ものものしい”題名で、芥川の思い出を長々と綴っている。
『私は、芥川を思ひ出すと、いつも、やさしい人であった、深切(ママ)な人であった、さびしい人であった、と、ただそれだけが、頭に、うかんでくるのである。それで、私には、芥川はなつかしい気がするのである。時には、なつかしくてたまらない気がするのである』で始まる長文の中で、芥川の告別式での菊池寛の弔文を紹介している。
芥川龍之介君よ、君が自ら選み自ら決したる死について、我等何をかいはんや。ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂へるを見て甚だ安心したり。友よ、安らかに眠れ! 君が夫人賢なればよく遺児を養ふに堪ゆべく、我等また微力を致して、君が眠りのいやが上に安らかならんことを努むべし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみにせうでうたるを如何にせん』
とかく弔文は長文だというが、短かった。が、菊池は読み始める前に啜り泣き、読み出してからも、一句よんではしゃくり上げ、終には声をあげて泣きながら読み終わった。人々は感動し、感涙にむせんだという。

芥川が死んでから数日後に吉井勇広津和郎が銀座で逢って、「ほかの人が死んでも『ああ、そうか』と思ふくらゐだが、芥川が死んだときは、悲しい気がしたね」と、しみじみと何度も語りあったという。
心に刻むべき芥川の言葉は枚挙に暇がない。が、ボクが銘記している箴言の一つは・・・。
『人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかし兎に角一部を成している』
 最近、再評価が深まっている芥川の文学精神と人物像はあらためて読み解く必要がある。ボクには極めて難題だが・・。