「知ったこと」より「感じたこと」

加藤周一 戦後を語る」のなかの冒頭部≪ある晴れた日の出来事 12月8日と8月15日≫で“1941年12月8日−その日、私は・・“と題して語っている。
「1941年の12月8日、私は学生でした。東京帝国大学医学部の学生でした。この日は晴れた日だった。・・・・朝、新聞の号外で真珠湾攻撃と太平洋戦争の開戦を知りました。
 その号外を友人が読むのを聞いたとき、私はまず最初に感じたことは、これはおしまいだということでした。大学も、私の周囲も、それから私自身の命も、これでおわりだと思いました。具体的にはどのようになるかはわからないけれど、みんな滅びていくだろうと思ったのです」
そして≪1945年8月15日≫について“ その日も晴れていた”と前置きして、「1945年8月15日、私は信州にいました。・・・その最初の反応は、生き延びたというか生きているということ。この時がくるのを長い間待ちのぞんでいたけれど、一方ではまさかこないだろうとも思っていましたから。兵隊として死ぬか軍医として死ぬか、あるいはそうでなくても、戦争が続き、本土決戦になれば、自分が生き延びる可能性は少ないと思っていたものですから、ああ生きられるというのが最初の反応だった思うんです」
この二つの反応、感想が加藤さんの思想の特徴を形成する「原風景」となっていたのは間違いない。氏は時代に迎合せず冷徹なバランス感覚を持ち、生涯平和主義に徹した。その確たる信念を、ぶれることなく社会に発信し続けた数少ない戦後派のリベラルな評論家としてボクは敬服している。
1941年はボクの生まれた年だ。だから、12月8日の軍国日本の大衆の≪高揚感≫は知らない。敗戦色濃いころ父にまたもや赤紙が届き母や祖父母が泣いていた姿、防空壕で雨の日、祖父母と母とボクが肩を寄せ合い空襲警報に怯えていた思い出、そして焼夷弾と爆弾・・。
45年8月15日、四歳のボクに徹底的な銃後の女の教育を受けていた母が「戦争が終わったようだね」と呟き、縁側から空を眺めながら「お父さんはいつ帰ってくるかねェ」とため息を漏らしていた情景が今も目に浮かぶ。父は九月になって復員してきた。
「戦争だけは絶対にやっちゃいけない」12前、80代半ばで他界した父の口癖だった。
母の呟きとため息、父の口癖をボクはいつも心底で感じている。戦争についての実体験を通じて知ることは余りにも少ないボクだが心に染み入る「原風景」は忘れない。
その“実感”を若い人たちや子どもたちに語り継いでゆく義務があると思っている。

因みに、「断腸亭日乗」のなかで、41年暮れの12月30日に荷風が一句詠んでいる。
 門松も世をはばかりし小枝かな