試作は労働−実体のある言葉は実生活のなかで五感を通じて生まれる

最近、ちょっとした原稿を依頼されることが増えつつある。言葉を紡ぎだすのは、ボクにとって産みの苦しみだ。つとめて、実体のわからない観念語は使わないように戒めている。
そんな折、詩人新川和江さんへのインタビュー記事に触発された。新川さんは15歳で詩人西条八十に私事して65年、“事象の奥に真実の言葉を求めて、厳しくも至福に満ちた道だった”と回想されている。
試作はまさしく労働だったという新川さん、「作品の中に、重いものを遠くの方から持ち込むわけですから。近くのもので間に合わせてはだめ。触ってみて、持ち上げてみて、自分の体で受け止めた上で、詩の中に据える。なかなかの力仕事です」「言葉を飾ると、その蔭で詩が死んでしまう。質素な言葉を使うと、詩が光りだすのです。観念語ではなく、実体のある言葉を使うこと。それは実生活の中で五感を通して体得していくものなのでしょうね」と語る。
ボクは最近『豊穣な学校文化を』と題して、学校の本来の姿を追求すべきだと訴えた。昨今の学校、特に中学・高校に豊かな学校文化が感じられない。その乏しさを憂いながらも、ボク自身、学校文化の実体がわからなくなっている。それではいけない。
新川さんの師事した西条八十は詩人で仏文学者だが、我が国の歌謡史に残る名曲の作詞家でもある。

その中でも美空ひばりの初期の代表曲『越後獅子の唄』(万城目正作曲)の詞は“質朴な言葉”で綴られた名詩だといえよう。
 笛に浮かれて逆立ちすれば
 山が見えますふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご)街道暮らし
 流れ流れの越後獅子
映画の情景が目に浮かぶ。
“実生活のなかで五感を通して体得”するためには、まさに“Sense of Wonder”を失わないこと。新川さんの箴言西条八十の名詩・名詞にふれ、改めてそのことの大切さを身にしみて感じる。
余談だが、西条八十の八十(やそ)は筆名ではない。お母さんが子どもの人生に苦(九)がないよう、九を飛ばして八十と命名したという。