負の痛みを語り懐かしむ者たち

還暦を迎えた者たちが我が家にやって来た。多くは付き合い40年以上の気心知れたボクの教え子たちだ。定年退職し、年金生活に入る者もいるが、中にはまだバリバリの舞台女優やTVカメラマン、個人運送業など仕事に一区切りつけることなく、現役で働く者もいる。定年組とて、第二の仕事をスタート、懐旧に浸ってなどいない。
が、いずれもどこかに失敗の痛みを抱えているはずだ。人生の成功者などと胸を張って自負できる者など稀だ。彼らもボクも“負を生きる”一面を持っている。つまり“失敗の痛みを生きている”のである。

『人はみな失敗者だ、と私は思っていた。私は人生の成功者だと思う人も、むろん世の中には沢山いるにちがいない。しかし、自我肥大の弊をまぬがれて、何の曇りもなくそう言い切れる人は意外に少ないのではなかろうかという気がした。かえりみれば私もまた人生の失敗者だった。失敗の痛みを心に抱くことなく生き得る人は少ない。人はその痛みに気づかないふりをして生きるのである』(1987年:藤沢周平)
今日集まった者たちには自我肥大は感じられない。それぞれが“失敗の痛み”を携えながらさりげなく己を語り、互いの話に耳を傾ける。
小雨降る梅雨空の日、「暗い空から射しこむ微光の荒涼としたなつかしさ」(『藤沢周平の言葉』より)を覚えるひと時だった。