人生に対する矜持を考える

今年、松本清張の生誕100年になるということもあり、清張の社会派推理モノで映画化されたり、TVドラマ化された作品が頻繁に再映されている。
ボク自身、70年代後半から90年代後半にかけて、清張作品を耽読した。多くは社会派推理や歴史もの現代史の裏面史モノを好んだが、清張自らが我が人生観を語った『私のものの見方考え方』は教わるところが多い。そのなかで、≪自分の人生に対する矜持≫に触れている。
「私のことを語らねばならない。私の学歴は小学校卒である。この小学校卒では私はかなり情けない差別待遇をうけてきた。しかし、小学校卒ということで一度も自分が恥ずかしいと思ったことはない。たまたま家が貧乏だったために上級の学校に入れなかっただけである」
「母はあらゆる苦労を重ねた。父が生活的には不運だったせいで、縁日を追ってスルメ、蜜柑水、ラムネ、茹で卵などを売り、遂には魚の行商までするよにうなった。だが、母はそのような貧乏な最中でも、私のよそ行きの着物と、自分の外出着だけはちゃんと作っていた。ことに私は発育盛りであるから、二年ごとぐらいには新しい物を作らなければならない。母はあらゆる倹約をしてそれだけは大事に仕舞っていた。
今になって考えると、母にはよそ行きの着物があるということが生活上の大きな安定感になっていたのではないかと思う。つまり、どのように貧乏していても、いざというときは人並みの着物を着てつき合えるという心の張りである。それは小さいことだが、母の気持ちにかなり大きな比重を占めていたように私には思える。実際、今から考えれば、母が一物もないようになってしまえば----事実、そういう生活であったから、母の心がけ次第では着たきり雀ということにもなりかねなかったのである。だが、外出着一枚を持っているということがいつも母に人間的な矜持を持たせ、そのことによって転落して行きそうな自分を抑止していたのではないかと思う」
「父もやはり小学校しか出ていなかった。・・・しかし、父は本と新聞を読むのが好きだった。どんなに貧乏していても、新聞だけは必ず二紙配達させていた。その商売が全盛のときは、たしか三種類か四種類の新聞が配達されていたと思う。父は私が、13、4ぐらいのときに新聞を読むなら第一ばんに政治面から読め、新聞を手に取って三面を開くようでは人にバカにされる、と云ったことがある」

ボクの矜持はなんだろう。一昔以上前になるが、家内が弁当を包んでくれた英字新聞で、昼飯を食べながらコラム記事を読む習慣が知らず知らず身についていたことぐらいかな?
1888年(明治21年)生まれで80歳で他界したボクの祖母は尋常小学校出だったが、晩年毎日配達されてくる新聞を虫メガネを使って、隅から隅まで読むのを日課にしていた。そして、日によっては好みの和服に着換え下駄をひっかけて、孫(ボクや弟)を連れ、街に遊びに行くのが好きだった。『日和下駄』じゃないが、裕福ではないものの粋な姿の祖母の暮らしぶりが目に浮かぶ。